未完の改革者ジョージ・トライオン提督
ジョージ・トライオン提督はその最期に起こした失敗で後世にその名を残してしまいましたが、そこに至るまでの過程に注目してみました。
かなり長いです。
クリミア戦争
1832年1月4日、イングランド中部ブルウィックパークという街でジョージ・トライオン George Tryon は生まれた。父トマス Thomas Tryon (1802-1872) は州長官や州判事をつとめたので名士であることは確かだが、家系は遡れず新興階級であったようだ。しかしジョージは名門イートン校に進んだし、兄弟もみな軍将校となっているのである程度裕福であったことは間違いない。
長兄トマス Thomas Tryon (1828以前-1888) は第7王立フュージリア連隊 7th Royal Fusiliers で将校となり、クリミア戦争に従軍して中佐にまで昇進した。次兄ヘンリー Henry Tryon (1829頃-1854) はサンドハースト陸軍士官学校 Royal Military Academy Sandhurst を経てライフル旅団 Rifle Brigade の将校としてやはりクリミア戦争に従軍したが中尉で戦死した。弟リチャード Richard Tryon (1837-1905) はやはりライフル旅団に勤務して大尉に至った。三男のジョージははじめ名門パブリックスクールのイートン校 Eton College に通ったが、16歳になった1848年、父の反対を押し切って海軍に入隊した。父の弟(叔父)ロバート Robert Tryon (1810頃-1890) が海軍軍人(のち少将)だったのが影響したかもしれない。14歳が通例の海軍生徒に2年遅れで採用されたジョージ・トライオン(以下トライオン)は戦列艦ウェレズリー HMS Wellesley に配属された。この2年の遅れを取り戻すべくトライオンは勤務に精励する。
ウェレズリーは北アメリカ戦隊の旗艦であり、司令官ダンドナルド伯爵を乗せてカナダに向かう。ダンドナルド伯爵とはかつて南米でその名を馳せたトマス・コクラン Thomas Cochrane, 10th Earl of Dundonald (1775-1860) である。
トライオンは船酔いに悩まされることもあったがウェレズリーで候補生としてカナダやカリブ海を経めぐった。ジャマイカのポートロイヤル港では港内に係留されている倉庫船に転属させられるが、司令官の子息であるコクラン海尉 Arthur Cochrane (1824-1905) の口利きでウェレズリーへの「貸し出し」という形式で勤務を続けることができた。このころからトライオンはスケッチの練習をはじめたという。
1851年、本国に戻ったトライオンは戦列艦ヴェンジャンス HMS Vengeance に転属して地中海に向かった。当時ヴェンジャンスの艦長だったメンズ大佐(のち大将) Sir William Robert Mends (1812-1897) は「あんなに有能な若い士官は見たことがない。熱意とエネルギーに満ち、信号とボートの扱いでは群を抜いていた」とトライオンを評した。トライオンはエジプトを訪問するなど見聞を広めたが、1853年にトルコとロシアのあいだで戦争が始まると黒海に向かう。ロシア海軍がトルコ艦隊を撃破したシノペの惨状をスケッチに残したりしたトライオンだが、1854年にイギリスとフランスはトルコ側に立ってロシアと戦うことになる。クリミア戦争である。
クリミア半島に上陸した連合軍は激戦の末ロシア軍をセバストポリ要塞に押し込め、包囲戦が始まった。艦隊からも陸戦隊 Naval Brigade を編成して陸上戦闘に参加することになり、トライオンも派遣部隊に含まれた。陸軍に属してやはりクリミアで戦う兄ふたり、トマスとヘンリーと同じ戦場で戦うことになるが直後にヘンリーは戦死する。トライオンも傷を負ったが塹壕にとどまった。旗艦ブリタニア HMS Britannia で海尉がひとり戦死し、トライオンが後任として転属することになったが陸戦隊所属は変わらなかった。
年が明けて1855年、艦隊司令長官が交代することになり旗艦ブリタニアは本国に帰還する。トライオンもともにいったん帰国することになり、新品の戦列艦で新たに旗艦に指定されたロイヤルアルバート HMS Royal Albert に転属する。ヴェンジャンス艦長メンズ大佐がロイヤルアルバートの艦長に就任して、トライオンを新司令長官の副官に推薦したのだと言われる。トライオンは旗艦上でセバストポリ包囲戦の成り行きを見届けた。
地中海からアビシニア
クリミア戦争の終結が見え始めた1855年の末、黒海艦隊長官ライオンズ Edmund Lyons, 1st Baron Lyons (1790-1858) は講和会議に参加するため黒海を離れてマルセイユに向かった。ライオンズを送り届けた旗艦ロイヤルアルバートはマルタに向かう。トライオンは海尉として引き続きロイヤルアルバートで勤務する。その勤務は平和なものだったが、トライオンはリューマチを起こしてマルタで入院したりする一方で、ローマやナポリ、フィレンツェやポンペイといったイタリアの古都や遺跡を巡った。その報告書がイギリス本国で注目され、1858年にはヴィクトリア女王 Victoria (1819-1901) のフランス訪問に供奉するという名誉に浴した。当時の上官はトライオンについて「熱意と知性に満ち、いかなる困難な任務にも適する有能な士官」と評しているが、トライオン自身は海軍入隊が遅く有力な後援者もいない自分が出世に遅れをとるのではないかと常に気にしていた。大佐以降のイギリス海軍士官の昇進は厳密に先任順に従うため、初期のキャリアのわずかな昇進の遅れが将来大きく響いた。
1860年に中佐に昇進したトライオンは翌年、就役したばかりのイギリス海軍最初の装甲艦ウォリアー HMS Warrier の副長に任じられた。1863年にはデンマークからアレクサンドラ王女 Alexandra of Denmark (1844-1925) を迎えた。王女は皇太子(のちエドワード7世 Edward VII (1841-1910) )と結婚する。1864年には蒸気砲艦サプライズ HMS Surprise の艦長として地中海に戻る。トライオンはシシリー島沖で座礁したイギリス帆船の救援を命じられ、2日の作業で再浮揚に成功する。地中海艦隊長官スマート Sir Robert Smart (1796-1874) は本国にこの功績のためトライオンとその部下には賞金が与えられるべきだと上申した。トライオンは水兵に課された罰金についてその運用を限定すべきだと意見書を送り採用された。規則や規定に対して批判的な視点をもち、積極的に改善を求める姿勢は以後も一貫している。
1866年にトライオンは34歳という異例の若さで大佐に昇進するがしかし同時に半給勤務に編入される。給与の半額が支給され任務はない。1867年にノルウェーに漁業視察に赴いたトライオンだが急遽呼び戻され、中東に向かうことになる。当時アビシニアと呼ばれていたエチオピアでは内戦が起きており皇帝テオドロス2世 Tewodros II (c1818-1868) はイギリスなど列強に支援を求めたが顧みられなかった。窮地の皇帝はたまたま訪れていたイギリスの宣教師を拘束する。解放交渉にむかった外交官も同じ境遇に陥った。ことここに至ってイギリスは武力行使に踏み切る。
アビシニア侵攻軍の主力はインド兵だった。いったんインドに赴いたトライオンはインド兵の一部を輸送して紅海沿岸のズラに到着した。イギリス軍はここを策源地としてアビシニアの首都を目指すが、ズラからの距離は数百キロにおよんだ。本国や植民地の補給拠点から遠く離れ、道路も整備されておらず港湾設備も貧弱なズラで、内陸深く侵攻するイギリス軍を支援するためにトライオンは八面六臂の活躍をした。部下の半分が慣れない熱帯の気候に倒れる中、トライオンも体調を崩しながら休むことなく職務に精励し、組織の運営能力に長けていることを実証した。イギリス軍は半年の悪戦苦闘の末アビシニアの首都から拘束されていたイギリス人を解放した。トライオンは功績によりバス勲章 Companion of the Order of the Bath, CB を受章した。
帰国したトライオンはしばらく療養生活を経たのち、海軍大臣の秘書官に就任する。これは大佐に昇進してから少なくとも10年の勤務経験をもつ者が任じられるべき職とされており、5年目のトライオンの就任は異例だった。上司にあたる海軍大臣ゴッシェン George Goschen, 1st Viscount Goschen (1831-1907) はトライオンを評して「やや皮肉屋だが、専門の海軍にとどまらない広い知識と人間性に対する洞察力に基づいて適切に素早く決断ができる人物」と述べていた。
巡洋艦ローリー
トライオンは建造中の巡洋艦ローリー HMS Raleigh の艦長を命ぜられた。さっそく造船所に赴いたトライオンはいつもの調子で改善案を技師にぶつけて艤装に取り入れさせた。1874年早々に就役したローリーは蒸気航行ではイギリス海軍最速の軍艦で、帆走でも二番目という優秀な性能を示した。トライオンが指揮するローリーはジブラルタルを経て南米を訪れ、フォークランド諸島に至ると現地で小型帆船を雇って狩りをしながら島を一周した。さらに南アフリカに立ち寄ってジブラルタルに戻る。ちょうどイギリス皇太子のインド訪問が予定されており、ローリーを含む艦隊が皇太子に先行してインドに向かうことになった。皇太子一行は開通したばかりのスエズ運河を経由してインドまで往復したが、ローリーを含む艦隊はアフリカ大陸を迂回してインドに向かう。
大西洋を南下している途中、ローリーの水兵が海中に転落するという事故が起こった。波が高く救助のためにボートを下すのはかえって危険ではないかとトライオン艦長は珍しく判断に迷ったが、落水した水兵が力強く泳いでいるのを見て救助を決断した。救助を待って泳ぐ水兵を巻き込まないために機関を停止してボートを下ろしたローリーを強風の中でトライオンは巧みに操り、ボートと水兵の風上側に艦を持っていって風を遮り、ついに救助に成功した。見守っていた艦隊の艦長たちはトライオンの鮮やかな操艦ぶりを称賛したという。
ボンベイに先着した艦隊は皇太子の到着を迎え、歓迎行事ののちセイロンまで皇太子を送り届けた。皇太子のインド訪問は前代未聞のことで各地で盛大な歓迎を受けることになる。半年に及ぶ日程を終えて皇太子が帰国する際、艦隊の大部分は極東に向かったがローリーは艦隊から外れて皇太子とともにスエズ運河で本国に帰還することになる。ローリーには皇太子のインド土産である二頭の虎、一頭のヒョウ、その他動物や鳥が積み込まれた。
帰国したローリーは整備ののち地中海に派遣される。ちょうどロシアとトルコの緊張が高まっておりイギリスがクリミア戦争と同じようにロシアと戦うのではないかと噂されていた。地中海艦隊は黒海に入り、トライオン自身も22年前に戦ったクリミア半島を艦上から望観した。英露間の緊張はビスマルクの仲介で緩和に向かう。ヴィクトリア女王の次男で海軍軍人でもあったエジンバラ公アルフレッド王子 Alfred, Duke of Edinburgh (1844-1900) の夫人はロシア皇帝アレクサンドル2世 Aleksandr II (1818-1881) の皇女だった。トライオンのローリーはエジンバラ公夫人 Maria Aleksandrovna of Russia, Duchess of Edinburgh (1853-1920) が黒海を遊覧するために乗船したロシア皇室ヨットの護衛を仰せつかった。戦争の危険がなくなった黒海を去って地中海に戻ったトライオンだが、やがて3年半に及んだ艦長としての勤務を終え、ローリーを後任に引き継いで本国に帰還した。
翌1877年、ロンドンでは海軍が用いる信号書を改訂する委員会がもうけられ、トライオンも委員に任命された。半年におよぶ議論のなかでトライオンは改革派だったらしい。保守的な信号専門家と、ラジカルな改革を主張するトライオンたちに挟まれて委員長のホープ少将 Charles Webley Hope (1829-1880) はバランスをとるために苦心したようだ。このときトライオンが信号の問題に関与したことは注目される。
砲塔艦モナーク
1878年10月1日、トライオンは砲塔艦モナーク HMS Monarch の艦長に任命された。モナークが配属された地中海艦隊はトルコ沖にあってロシアに備えていた。トライオンがモナークに着任したのは11月半ばすぎとなった。
翌年早々、地中海艦隊に所属するサンダラー HMS Thunderer が砲撃演習で爆発事故を起こした。トライオンは調査委員に任命され原因の特定にあたる。結局この事故は前装式の主砲に対して機械装填装置が砲弾を二重装填したものと断定され、以後前装砲を廃止して後装砲で置き換えるきっかけとなった。
3年あまりに及んだモナーク艦長としての勤務において、もっとも注目されるのは1881年夏にフランスがおこなったチュニジア侵攻への対応である。フランス軍と現地住民のあいだに衝突が起こりフランス艦隊が砲撃を加えるなど、不安定な情勢下にあってイギリスは情勢の安定とイギリスが保つ権益の維持をめざしていた。トライオンはイギリス海軍派遣部隊の指揮官であるにとどまらず、外務省と連絡をとりあいながらフランス軍と現地有力者の仲介に乗りだし、三者協議を主催して利害の調整につとめ、最終的にチュニジアをフランスの保護領とすることで決着した。トライオンの貢献は本国外務省、地中海艦隊長官、フランス政府から高く評価された。外務省は「軍艦は不要だがトライオンは残しておきたい」と望んだという。
1882年にトライオンはモナークを退艦し、本国海軍本部の首席秘書官 Permanent Secretary to the Admiralty に移った。この職は本来文官の職だが、実際には将校がつとめることがままあった。トライオンのこの時期の功績のひとつが海軍情報委員会の設立だった。海軍や陸軍部隊が報告した情報を一手に集約する組織である。
オーストラリア
1884年、少将に昇進したトライオンはオーストラリア戦隊司令官 Commander, Australian Station に任命され地球の裏側に赴任した。当時オーストラリアを含む太平洋地域の重要性が増しており、戦隊司令官が代将 commodore から少将 rear admiral に格上げされた、その初代になったのがトライオンである。便船で現地に到着したのは翌1885年はじめ、南半球のオーストラリアでは真夏のことだった。
1884年にはドイツ領ニューギニアが成立しており、それに対抗するようにオーストラリア北東部クイーンズランド政府が主導してニューギニア南西部を占めるイギリス領パプアが成立した。この新領土もトライオンの防衛責任に含まれた。さらに1885年、ロシアがアフガニスタンの一部を併合して南下の気配を見せたことでロシアとの緊張が高まり太平洋でもロシアによる通商破壊が現実的な脅威として感じられた。
当時オーストラリアは地理的な名称に過ぎず、各植民地政府(現在の州に相当)が本国政府に直接属している状態で、オーストラリア大陸全体を統轄する組織は存在しなかった。自治領としてのオーストラリア連邦政府が成立するのは1901年のことである。
トライオンは、個別の植民地に分散して兵力を張り付けるより、まとまった戦力を機動的に運用するのが得策と考え、各植民地に働きかけたが特に反発したのがニュージーランドだった。ニュージーランドはオーストラリアから距離があることもあって常駐の防衛能力を望んだ。トライオンは港湾や沿岸都市の要塞化とセットで植民地を説得してまわり、自らの構想の実現に奔走した。
トライオンはまたオーストラリア地域最大の軍港であるシドニーの海軍設備の充実に乗り出す。大規模な補給施設を設け、艦船の修理整備のためのドックも拡張された。トライオンが本国に提案したオーストラリアに配備することを目的として新造するべき艦艇について検討する会議がロンドンで開かれたが、トライオン自身はその会議には招かれなかった。これが不満だったのか、トライオンは通例の3年の任期より短い2年でオーストラリアを離れる。1887年、本国に帰還したトライオンはバス騎士 Knight Commander of the Order of the Bath, KCB に叙任されサー・トライオン Sir George Tryon KCB と名乗ることになった。
その後トライオンは半給勤務に編入される。事実上の休職である。この機会にトライオンは下院議員に立候補するがわずかな差で敗れた。
予備員総監
1888年4月、トライオンは Admiral Superintendent of Reserves に就任する。ここでは仮に予備員総監としておく。予備員総監は戦時に備えて水兵の動員に関する制度を研究提案するとともに沿岸防御計画も担任した。1889年8月15日に中将に昇進する。
イギリスの巨大な商船隊を背景として、イギリス海軍では古くから戦時に商船の水夫を動員して軍艦の水兵に充当してきた。しかし予備員総監のトライオンは、近年の軍艦の急速な発展にともなって商船と軍艦の差が大きく広がり、商船での勤務経験が必ずしも軍艦での勤務に応用できなくなりつつあるとし、平時から水夫を予備員に指定して定期的に海軍での訓練を施すとともに、その代償として適切な手当を支給するという制度を提案した。トライオンはクリミア戦争での経験から商船出身の水夫の能力を高く評価していた。
またトライオンは戦時の保険制度の改革を主張した。戦時には海上輸送の保険料は高騰する。そのため利益が見込めないと考える船主は輸送そのものをとりやめてしまうことがあった。これを放置していては敵の攻撃をうけるよりも以前に戦時の海上輸送がみずから機能不全に陥りかねない。トライオンは戦時の損失を政府が補償することで戦時であっても海上輸送が継続されると主張したが、この提案は広範な議論を呼び起こした。支持者がある一方で、政府による価格操作につながりかねないとして反対する意見も強く採用には至らなかった。
1889年に成立してイギリスの二国標準主義を規定した海防法 Naval Defence Act の策定にもトライオンは関わったが、さらに海防法にしたがって建造されることになった新戦艦についてもトライオンは、比較的軽量な主砲を乾舷の高い船体に装備すべきだと主張して、当時主流だった巨大な砲を乾舷の低い船体に装備すべきだという意見と対立した。当時、海軍造船本部長 Director of Naval Construction だったホワイト Sir William White (1845-1913) の意見はトライオンに近く、結局予定された8隻のうち7隻を高乾舷とし、1隻を低乾舷で建造することになった。のちのことになるが完成した実艦での運用実績の比較ではトライオンらの意見が正しかったことが証明された。
三度の演習
1888年の夏、イギリス本国の艦隊を二分した大規模な演習が実施された。トライオンの前任の予備員総監で現在は海峡戦隊司令官であるベアード中将 Sir John Baird (1832-1908) がイギリス海軍側の指揮官をつとめてブリテン島を防衛する任務を与えられ、対抗部隊としてイギリスを襲撃する部隊の指揮をトライオンがとることになった。トライオンの指揮するアシル戦隊 ‘Achill’ はアイルランド南西端のベレハーヴェンと北岸のラフ・シリーに分散して配備され、アイルランドは「アシル」側という設定だった。
7月24日に始まった演習ではベレハーヴェンのアシル戦隊の主隊をベアード指揮下のマーカム少将 Sir Albert Markham (1841-1918) 率いる部隊が封鎖していた。演習が始まって9日目、そろそろ封鎖部隊の石炭が不足し始めるとみたトライオンは8月3日の夜、ベレハーヴェンの東側出口で脱出を試みるとみせかけ、マーカムがそちらに注意を引き付けられているあいだに主力を引き連れて西口から脱出した。翌日、ラフ・シリーの部隊とも合流したアシル戦隊は「敵地」ブリテン島に向かう。
アシル戦隊の脱出を知ったベアードは封鎖を解除し、指揮下の艦隊を分散して各地の防衛にあて、みずからはテムズ河口に位置してロンドンを守った。トライオンは合流したアシル戦隊を快速部隊と低速部隊に再編し、前者をフィッツロイ Robert O’Brien Fitzroy (1839-1896) に預けてアバディーンやニューカッスルなどの沿岸都市を砲撃させ、みずからは低速部隊を率いてリバプールを攻撃した。アシル戦隊は英仏海峡を含むイギリス海域を制圧したと判定された。
一部の士官はアシル戦隊が商船を捕獲する際に定められた手順を順守せず、また無防備な都市を砲撃して市民を「殺害」したと非難したが、しかしトライオンによってイギリスが本国の制海権を失なったことは間違いない事実だった。この演習の結果は翌年の海防法に影響した。
翌1889年、ほぼ同じ設定で演習がおこなわれたが、今度は防御側をトライオン、襲撃側をベアードが担当した。トライオンは敵地を封鎖せず、近海で迎え撃つ作戦をとる。快速の巡洋艦を次席指揮官であるダルシーアーヴィン Sir St George Caulfield D’Arcy-Irvine (1833-1916) に任せたベアードは主力を率いてロンドンを襲ったがトライオンに迎撃されて失敗した。ダルシーアーヴィンはスコットランド沿岸を襲撃したが、さらに南下してスカボローを襲撃しようとしたところトライオンの次席指揮官トレーシー Richard Edward Tracey (1837-1907) が指揮する快速部隊に迎撃され過半数を捕獲されてしまう。ダルシーアーヴィン自身はかろうじて逃げ延びた。総体的にトライオンは目的を達成したと判定されたが、それでもベアードらによって95隻の商船が沿岸で捕獲されたとされ、戦時の通商保護の難しさが改めて浮き彫りになった。
トライオンとトレーシーは、1890年の演習でも防御軍を演じた。今度の敵手はシーモア Sir Michael Culme-Seymour, 3rd Bt (1836-1920) とロビンソン Frederick Robinson (1836-1896) だった。シーモアはイギリス本国の襲撃は諦め、燃料の問題を軽減するために石炭輸送船を随伴させて300マイル離れた洋上でイギリス商船を捕獲してまわった。トライオンはイギリス本国の防衛には成功したものの商船を守ることはできなかった。この年の演習ではこれまでのような華々しい戦闘は起こらなかったが、イギリスとイギリス海軍が抱えている現実の脅威が正確に表現されたものと受け止められた。
地中海戦隊司令長官
1891年8月、トライオンは地中海戦隊司令長官 Commander-in-Chief, Mediterranean Station に任命された。当時地中海戦隊はイギリス海軍でもっとも強力な部隊と見なされていた。戦艦ナイル HMS Nile に座乗して任地に向かったトライオンはジブラルタルで前任者から指揮を引き継ぎ、戦艦ヴィクトリア HMS Victoria に移乗した。各地に寄港しながら東進し、東地中海にあった主力に合流したときには秋になっていた。
トライオンが指揮下の艦長にまず要求したのは、通常の手順では報告に含まれないどんな些細なことでも、それが艦隊の安全やイギリスの権益に少しでも影響をおよぼす可能性があると見なすならば、躊躇することなく記録しトライオンに報告することだった。
1891年の年次訓練を終えた地中海戦隊はふたつに別れ、トライオンの主隊はマルタで越冬し、カー少将 Lord Walter Talbot Kerr (1839-1927) が率いる第二部隊はレバント(地中海東部のシリア、レバノン、イスラエルなどの地域)にとどまった。
1892年はじめ、戦隊から離れて単独で魚雷発射演習をおこなっていた戦艦ヴィクトリアがエーゲ海で座礁事故を起こした。トライオンは乗艦していなかった。艦長は浅瀬が多いことから艦位に注意するよう指示していたが、航海士が浮標の位置を海図上の誤った位置にプロットしてしまい、艦首から浅瀬に乗り上げた。幸い損傷は深刻なものではなかったが、浅瀬から引き下ろすために重量物を一時撤去する必要があり、再浮揚されたヴィクトリアはマルタで修理がおこなわれ復帰は初夏になる。
11月には戦艦ハウ HMS Howe がスペインのフェロル沖で座礁する。原因は海図の誤りで乗員に責任はなかったが救助は難航し翌年の3月までかかってようやくハウは離礁に成功した。度重なる事故に業を煮やしたのか、トライオンは指揮下の艦長あてに、特に平時において艦長がもっとも留意すべきは自艦の安全であることを銘記せよ、と通知した。
信号改革の試み
かねてトライオンは、当時の信号システムは帆船時代の遺物であり、蒸気機関によって進退が自由になった近代軍艦を使用する海戦では、命令の伝達と実行は迅速かつ適時におこなわれることが絶対に必要だと考えていた。無線が実用化されていない当時、旗艦の命令は信号旗で伝達されていた(夜間の艦隊戦闘は事実上不可能だった)。
その手順は以下の通りである。まず命令の内容は信号旗の組み合わせで表され、旗艦のマストに掲揚される。指揮下の各艦ではその信号を確認し、命令の内容を理解すると同じ信号旗をそれぞれ掲揚して命令を了解したことを示す。旗艦では指揮下の全艦が命令を了解したことを確認すると、命令を発動するタイミングで信号旗を引き下ろす。指揮下の各艦はそれを合図に命令を実行する、というものであった。現在の目からすればまことに悠長な仕組みだった。命令が了解される前に状況が変化しても対応が難しい。
仕組みはそのままで複雑化し自由度が増した運動に対応しようとするならば、信号の種類を増やすしかない。ありとあらゆる事態をあらかじめ想定してそれぞれの信号を定義するか、さもなくば長く複雑な命令を逐語的に信号旗で表すことになる(実際には一度に掲揚できる信号旗の数は限られるため無闇に長くできない)。結果として信号書は分厚くなる一方で、専門の信号兵でもすべてを覚えている者は誰もいないといわれた。
いまや司令長官として自分の意のままに動かすことのできる手駒を手にしたトライオンは自らが考案した新しい信号システムを導入した。地中海戦隊で肯定的な結果が得られればイギリス海軍全体に適用することを働きかけるためのいわば実験だった。トライオンは複雑で長くなりがちだった命令を短くシンプルな部分に分解して種類を減らし、それぞれ一枚または数枚の信号旗で表すことにした。また信号は旗艦に掲揚されているのを認めた時点で直ちに実行され、了解の表示は不要とされた。艦隊の運動はあらかじめ細かく指示することなく、単に旗艦の行動を見て続航することを基本とした。「旗艦に続航せよ」という命令は信号旗のT旗とA旗の組み合わせで示されたため、トライオンが提案した信号システムはTA信号システムと呼ばれた。
トライオンの提案は海軍部内で大きな議論を引き起こした。信号の専門家はネルソン Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson (1758-1805) 以来の伝統ある信号システムに固執した。タイムズ紙は「理論に合わず実施に危険がある」と評した。東インド戦隊司令官のケネディ少将 William Robert Kennedy (1838-1916) は自分の部隊でもトライオンの提案を実験的に採用することとし「このアイデアは戦時には計り知れない価値をもたらすだろう」とコメントした。
戦艦ヴィクトリア
1887年6月20日、イギリスではヴィクトリア女王の即位50周年が盛大に祝われた。直前の4月9日に進水したイギリス海軍最新鋭の戦艦はレナウン Renown と名付けられていたが、この慶事を記念してヴィクトリア HMS Victoria と改名された。
ヴィクトリアは低い前甲板に41cmの巨砲を連装砲塔に収めて装備し、後甲板は主砲が置かれず比較的高い乾舷をもつという、前後ではっきり高さが異なる特徴的な艦影を示し、姉妹艦のサン・パレイ HMS Sans Pareil と合わせて「一組のスリッパ a pair of slippers」という渾名があった。
ヴィクトリアは当時イギリス海軍で最新鋭の戦艦だったが、皮肉なことにトライオンがかつて否定した「巨大な砲を低い乾舷の船体に装備」した究極形であった。
装甲艦の舷側装甲は敵の砲弾があけた破口から海水が浸入することを防ぐのが目的であったから、水線の上下にまたがって装甲を施すのが常識であった一方で、砲弾は海中に入ると急速にその威力を失なうと考えられており水線下部深くにまで装甲を施すのは無駄だとされていた。水線下を破壊するのは軍艦の艦首に備えた衝角もしくはちょうど普及しつつあった魚雷の役割だった。水線下に攻撃をうけた場合は装甲で防御するのではなく、艦内を細かい防水区画に区分して浸水の影響を限定しようとした。低い乾舷のヴィクトリアでは、舷側装甲板の上端が水面上にわずかしか露出せず、吃水が深い満載状態ではほとんど水線下に没することもあった。
1893年6月22日、トライオンが指揮する地中海戦隊の主力艦11隻は地中海東部、現在はレバノン領、当時はトルコ領のトリポリ沖にあり、6隻を第一戦隊としてトライオンが直接率い、残り5隻を第二戦隊として次席指揮艦マーカム少将が率いていた。マーカムは1888年の演習でベレハーヴェンの封鎖にあたったがトライオンに出し抜かれて脱出を許したその人である。第一戦隊と第二戦隊はそれぞれ縦陣形をとって互いに6ケーブル(約1200ヤード=1100メートル)の間隔で並行して陸地の方向に向かって8ノットで航行していた。右側に位置する第一戦隊の先頭はトライオンが座乗するヴィクトリア、左側の第二戦隊の先頭はマーカムが乗る戦艦キャンパーダウン HMS Camperdown だった。
ヴィクトリア艦長バーク大佐 Maurice Bourke (1853-1900) の報告によると、トライオンはバーク大佐と参謀の中佐を自室に呼び、それぞれの戦隊を内側に向けて旋回反転させ、距離を縮めた上で左に転針して錨をうち夜泊したいと説明した。参謀は、旋回には少なくとも800ヤード必要であり、現在の間隔6ケーブルでは危険で、少なくとも8ケーブル、余裕をみて10ケーブルに間隔を広げることを提案し、トライオンは「少なくとも8ケーブルだな」と答えたという。だからその後、トライオンが間隔を広げることなく両戦隊に内側に向けて旋回するよう命じたときには参謀は驚いて「間違いないですか」と確認したがトライオンは無愛想に肯定しただけだった。
15時過ぎ、トライオンは8.8ノットに増速するとともに両戦隊に同時に内側に向けて旋回反転することを命じる。いわく、「(右側の)第一戦隊は左舷に16点順次回頭し艦隊中の位置を維持せよ」「(左側の)第二戦隊は右舷に16点順次回頭し艦隊中の位置を維持せよ」。「16点」とは180度旋回を意味する。「艦隊中の位置を維持せよ preserving the order of the fleet」は、旋回が完了した時点で元の位置関係を維持、つまり第一戦隊は進行方向に向かって右側、第二戦隊は左側に位置するように運動することを意味した。両戦隊はどこかで交差するようにすれ違うことになる。
バーク大佐はあらかじめトライオンから説明を受けており、戦隊同士の間隔が小さいことはトライオン長官も認識していると思っていたので、深く疑問に思わず旋回を開始した。一方で第二戦隊を指揮するマーカムは唐突な命令に困惑した。陸岸にむかって航行しているのでいずれ転針することは想定していたが同時に内側に変針するというのは予想外だった。マーカムが命令の実行をためらっていると旗艦からセマフォ信号で「貴官は何を待っているのか」と催促を受けた。セマフォ信号は艦隊のどの艦からも視認できる。全艦隊の前で大っぴらに叱責された形になったマーカムは、直ちに命令の実行を命じた。第一、第二両戦隊は衝突コースに乗ったまま旋回を続けていたが、ヴィクトリアとキャンパーダウンの士官たちはいずれ長官がなんらかの指示をするのだろうと考えていたとのちに証言する。
しかしトライオンは何の指示もださなかった。バークは三度にわたって後進の許可をトライオンに求め、ようやく許可を得たときには手遅れだった。トライオンは声が届くはずもないキャンパーダウンに向かって「後進だ、後進!」と叫んだ。キャンパーダウン艦長ジョンストン大佐 Chrales Johnstone (1843-1927) も後進を命じたが間に合わなかった。15時30分、キャンパーダウンの衝角がヴィクトリアの右舷前部に突き刺さった。
水兵の半分は居住区で休んでいた。夏の中東の午後のことであり、冷房などない当時、涼を得るために舷窓や扉の多くが開け放たれていた。まずいことに衝突の直前、両艦は後進全速を命じていた。キャンパーダウンは後退してヴィクトリアから離れ、水線下にあけられた破口から海水がどっと流れ込んできた。衝突の衝撃で飛び起きた水兵は隔壁の扉を閉めようと試みたが水の勢いは激しく、その時間を与えなかった。水圧のせいで扉を閉めるためには普段の何倍、何十倍もの力が必要になり事実上閉鎖は不可能だった。
バーク大佐は、イギリス海軍でもっとも近代的な防御区画を備えたヴィクトリアが一度の衝突で沈没するなどあり得ないと考えており、自ら艦橋を降りて被害を確認し防水扉を閉鎖しようとしたが、衝突からわずか数分で事態は急速に悪化した。船体は右前部に向かって大きく傾き、その反動で艦尾は浮き上がり海面下10フィート(3.3メートル)にあるはずのスクリューが海面上に露出した。船体が傾いたため、衝突による破口だけでなく開放状態の舷窓や砲口、甲板上の通気口などからも海水が流入し、はじめはゆっくりと増していた傾斜が加速度的に速くなった。
15時44分、衝突からわずか10分あまりでヴィクトリアは転覆し、艦底を上にして沈んでいった。357名が救出され、358名が艦とともに沈んだ。艦長のバーク大佐と副長のジェリコー中佐 John Jellicoe, 1st Earl Jellicoe (1859-1935) は救出されたが、トライオン長官は艦と運命をともにした。
イギリス史上もっとも偉大な君主とされたヴィクトリア女王だが、彼女の名前を冠したイギリス海軍軍艦はこれが最後となった(王室ヨット ヴィクトリア・アンド・アルバート HMY Victoria and Albert を除く)。
軍法会議
世界に冠たるイギリス海軍の最新鋭戦艦が、衝突事故で呆気なく沈没して多数の犠牲者を出したというニュースはイギリス国内でセンセーショナルに報じられた。さらに続報でトライオンが1200ヤードの間隔で旋回を命じたこと、そして部下の将校たちがその命令をそのまま実行して事故にいたったことが伝えられると、経験豊かなはずのイギリス海軍士官がなぜそんな子供でもわかるミスを犯し、見逃したのかという疑問が沸き起こったのは必然だった。イギリス海軍の指揮官の資質、士官にはびこる官僚主義、さらには軍艦の構造に問題があるのではないかと批判が投げかけられた。その批判の焦点に置かれたのがトライオンである。
7月17日、マルタ島の戦列艦ハイバーニア HMS Hibernia の艦上で軍法会議が始まった。軍法会議を主宰したのはトライオンの後任の地中海戦隊司令長官であり、1890年の演習の対手であったシーモア中将だった。軍法会議の審議対象とされたのはヴィクトリアの生き残った乗員だけで、司令部職員やキャンパーダウンの艦長はひとまず含まれなかった。事実上、ヴィクトリア艦長バークを裁く場となる。
軍法会議が始まった時点で、両戦隊の間隔が不足していたことが直接の原因であったことは明らかだった。バークは、長官キャビンでの議論のあと、トライオンに戦隊の間隔を広げるべきとは進言しなかったが、トライオンが戦隊の間隔を1200ヤードと指示したときに旋回半径が800ヤードであることは指摘したと述べ、トライオンがそれを認識した上で命令したのだからいずれ衝突を避けるための何らかの指示を出すのだろうと考えた、と主張した。判事団はバークに事故の時点で艦隊はTA信号システムを適用中だったかどうかを尋ね、バークは「トライオン長官はTAシステム実施中は艦橋前方に立ち、それ以外では後方に留まるのが常でした。事故のとき長官は前方に立っていました」と答え、TAシステムに従って運用していたことを示唆した。
続いて証言したヴィクトリアの航海士官は衝突直後にトライオンが「すべて自分の過ちだ」と呟いたと述べた。司令部航海参謀は衝突の結果、ヴィクトリアが沈没してしまうとは考えていなかったと証言した。
参考人として証言に立ったマーカムの立場は微妙だった。マーカムはこの軍法会議では被告人ではなかったが、今後訴追される可能性は十分にあった。マーカムは慎重に言葉を選びながら証言した。
はじめに命令をうけたときにその危険に気づいて困惑したこと、即時実行を促すトライオンの指示をうけて明らかな見通しがないまま実行を命令したこと、「戦隊の位置関係を維持する」という命令から判断して、トライオンの第一戦隊は速度を落とすか大回りして衝突を避けるのだろうと期待したこと、それにも関わらず第一戦隊が衝突コースを進んできたので回避を指示したが間に合わなかったことを説明した。検事が指摘した、トライオン長官が事故前に回覧したメモの記述「もし命令に文字通り従った結果として味方と衝突する恐れがある場合、命令の本来の目的を達成することを考慮しつつ、危険を避けるためにあらゆる手段をとらなければならない」(もともとはナポレオン戦争中のウェリントン公 Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington (1769-1852) の言葉)について、マーカムは「メモが回覧されたことは覚えている。事故のときにその言葉そのものは思い出さなかったが、危険を避けることは常に考えていた」と答えた。
さらにマーカムが強調したのは、トライオン長官が命令の意図を事前に説明することはほとんどなく、あとになって旗艦ヴィクトリアの長官キャビンで説明を受けるのが常だったことである。
10日の審議を経てシーモア率いる判事団は、①衝突の原因はトライオン長官の命令にある。②バーク大佐はじめヴィクトリアの生き残った乗員には処罰されるべき過失はない。③マーカム少将は自らが感じた疑問を長官に尋ねるべきだった。そうしていれば事故は防げた可能性が高い。④艦や人命を救おうとして衝突後にとられた処置に明らかな落ち度はなかった。⑤艦が沈没にいたった原因の技術的な判断は軍法会議の権限外である。との判決を下した。
実のところバーク大佐は貴族の出身(インド総督第6代メイヨ伯爵 Richard Bourke, 6th Earl of Mayo (1822-1872) の次男)で、海軍軍人でもあったエジンバラ公アルフレッド王子と親交があった。シーモア中将をトライオンの後任の地中海戦隊長官、軍法会議の議長に推薦したのはエジンバラ公だった。シーモアも、イギリス有数の名門貴族サマセット公シーモア家の一族で代々海軍軍人を輩出した家系の出身である。こうした事情がどれくらい判決に影響したかはわからない。ただ、被告人であるバークよりも参考人のはずのマーカムに厳しい態度がとられた印象がある。
バークとヴィクトリア乗員を対象とする軍法会議は終結したが、マーカムやトライオンの司令部を対象として新たに軍法会議を開くべきかどうかが海軍本部で議論された。しかしバーク艦長が「長官の命令に従った」として無罪とされた上で、マーカムを同じ罪状で訴追するのは難しかった。結局マーカムの訴追は見送られるが、半給勤務に編入されて海軍軍人としてのキャリアは事実上断たれた。バーク大佐は海軍にとどまったが1900年に病死する。
海軍造船本部長ホワイトは9月に沈没事故に関する技術的な報告書をまとめる。それによると、防水隔壁の設計や設備そのものには問題はなく、キャンパーダウンが後退したことによって破口から海水が流入したことは確かだが、それ自体が直ちに沈没に至らしめたわけではない。
最大の問題は防水区画の間を繋ぐ扉の多くが開放されており、事故後に閉鎖を試みたが数分のうちに満水状態になって閉鎖できなかったことだとされた。開放された隔壁扉を経て右舷側に浸水して傾き、同じく開放されていた舷窓や砲口からさらに浸水する結果となって急速にバランスを崩して転覆沈没した。艦後部のエンジンルームには浸水していなかった。ヴィクトリアはもともと乾舷が低いという指摘があったが、それは今回の事故の原因ではない。浸水が衝突した区画だけに限定されていれば沈没は防げたとしている。悪天候下での航行中は隔壁扉を閉鎖するという規定はあったが、通常の演習において隔壁扉を閉鎖しておくという決まりも慣習もなかった。
キャンパーダウンが後退せず衝突したままだったら沈没を免れたとは言えない。後退しなかった場合でも、旋回しようとする力や海流によって衝突角度が変化して破口をより大きく広げてしまう恐れがあった。こうした事態にあってどちらが正解であるかは一概に言えないとした。
皮肉なことに、最新鋭戦艦ヴィクトリアの沈没は、すでに疑問視されていた衝角戦術を延命させることになる。最新の技術で厳重に装甲された戦艦であっても、水線下に破口をあければ簡単に沈没してしまうことが証明されたからである。しかし衝角戦術の本当の問題は、運動する敵艦にいかにして衝撃を加え破口をあけるかという、それ以前の段階にあった。翌1894年に起きた黄海海戦では清国艦隊は衝撃を試みたが成功しなかった。日露戦争では衝角戦術は試みられもしなかった。第一次大戦では主力艦の水線下に破口をあけるのは機雷または潜水艦が発射する魚雷の役割になった。1866年のリッサ海戦で一躍注目を浴びた衝角戦術だが、実のところその「戦果」は敵よりも味方のほうが多い。ヴィクトリアもその一例だが、1878年のドイツ装甲艦グローサークルフュルスト SMS Grosser Kurfürst や、1904年の巡洋艦吉野など味方の衝角の犠牲となった艦船は数多く、後知恵ではあるがデメリットのほうが大きかったと言わざるを得ない。
トライオンがどうしてあのような命令を出したのかは永遠の謎として残った。トライオンは危険性を認識せず誤った命令を出したのだろうという見解と、認識したうえで何らかの意図をもって命令を出したという見解があるが結論が出ることはないだろう。ただし、1890年の演習においてトライオンがほぼ同じ内容の命令を発していたことは注目される。このときは次席指揮官であったトレーシーが途中で旋回を中止させたため大事にはいたらなかった。トレーシーはハイバーニアでの軍法会議で判事団のひとりだった。
後継者たち
ヴィクトリアの沈没からほぼ1年後に、遠く離れた極東で日清戦争が勃発した。さらに2月後、両国艦隊のあいだで黄海海戦が戦われ、縦陣隊形をとった日本艦隊が横陣隊形の清国艦隊を破った。これをうけて世界的に艦隊陣形は縦陣が主流となるが、日本がトライオンの信号改革についてどれくらい認識していたかは定かではない。当時の常備艦隊参謀、のち海軍大将山屋他人は回想で「艦隊をふたつにわけて対抗演習をしてみると、複雑なことをやった方はいつも負け、単純に前に続けで押し通した方が必ず勝った。そこで次の戦争では縦陣をとることにしたのです」と説明していた。しかし実際にはまだ艦隊運動に未熟な日本海軍ではほかの陣形はとりたくてもとれなかったというのが現実だったようだ。続く米西戦争、日露戦争、第一次世界大戦では当然のように縦陣形がとられた。
トライオンとともに彼のTA信号システムは葬り去られた。その数年後、世紀がかわる頃から無線電信が急速に普及し10年後の日露戦争では両国艦隊が広く採用した。日本海海戦でロシアバルチック艦隊を発見した信濃丸の報告は鎮海湾で待機する聯合艦隊に無電で届けられた。TAシステムは仮に採用されたとしても10年後には無用になってしまう運命ではあったが、しかし指揮官の命令が遅滞なく指揮下部隊に周知されることを求めたトライオンの発想自体は十分に時代を先取りしたものだった。
トライオンには男子が一人あり、父と同じイートン校を経てサンドハースト陸軍士官学校に進み、ヴィクトリアの事故のときには近衛擲弾兵連隊 Grenadier Guards に将校として勤務していた。少佐で現役を退いたあとは保守党から立候補して父が落選した下院議員に就任し、1920年代から30年代にかけて閣僚(恩給大臣、郵政大臣ほか)を数度経験した。1940年に亡くなる直前に男爵を授けられトライオン男爵 George Tryon, 1st Baron Tryon (1871-1940) と称した。男爵家は2023年現在も存続している。
おわりに
最近たまたまトライオンという懐かしい名前をTLでみかけて、あらためて調べ直してみたら思いの外エピソードや示唆に富んだ生涯を送っていたことに驚きました。もっばらヴィクトリア沈没事故の主犯として扱われてきましたが、考えてみたら仮にも当時イギリス海軍最強の地中海戦隊(表記に揺れがあるのはイギリス海軍のせい)を任された提督がそんなぼんくらであるわけがなく、実際それまでの経歴を見ると気難しいところはあったにしても優秀で熱意も人一倍持っていたことは明らかです。だからこそ最期のあの行動が謎なのですが。タイトルの「未完の改革者」というキャッチフレーズは自分が勝手につけたものです。なんとなくそんなふうに感じたので。
神田神保町の古書店街の、まだ靖国通りに面して店舗を構えていたころの文華堂書店で入手した雑誌世界の艦船 1977年6月号「海難」特集に掲載されていた記事で、ヴィクトリアとトライオンについて初めて知ったことをはっきり覚えています。印象的なエピソードなので最近でも黒井緑さんが漫画に書いたりしています。
自分でもツイッターにスレを起こしたりしていますが、こちらは読まなくていいです。
読むならエリザさんの連ツイをどうぞ。
基本的に英語版ウィキペディアの内容に依拠していますが、参考文献を見るとトライオンの伝記に多くを拠っているようです。類似の記述が目立つとすれば、出典が共通なのでしょう。ウィキの他には、以下のサイトを参照しました。
なお戦艦の技術的な解説についての参考文献は以下記事を書いたときに参照した文献と共通と考えてください。
ひとつだけ参考文献を掲げておきます。米海軍協会が発行している由緒正しい雑誌(今もある)なのですが、この事故に対する軍法会議のやりとりの様子が詳述されていて非常に興味深いものでした。無料アクセスできるのは月に5回までという縛りがあるのにご注意ください。
LIPSCOMB, Frank, Commander (RN), The Victoria And The Camperdown, US Naval Institute Proceeding, January 1958
ここ1週間くらい、別の記事を書きながら並行してではありますがずっとかかりっきりで書き続け、気がつけば2万字の大作になってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。
ではもしまた機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
画像はウィキペディアから引用しました。
(カバー画像は沈むヴィクトリア(右)と、キャンパーダウン(左))
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