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横山知伸

先週
あるJクラブで働いている知人からいきなり連絡が来て
「横山知伸が1月4日に亡くなった」という事実を教えてくれた。
まだ38歳。脳腫瘍だった。

まだこのニュースはリリース前だったので本当はこういう知らせも良くないことなのかもしれないけれど、それをわかった上でも
「久保田さんの教え子ですよね。だから連絡しました」と、この悲しくて悔しいニュースを知らせてくれた。その時点で、もう葬儀はご家族のみで済ませていたらしい。

2018年に脳腫瘍が見つかり、その後は回復したと聞いていた。
昨年また再発したけれど、その後退院したというからてっきり安心していたのに。突然の訃報に、今でも胸がぐるぐるしている。

自分にとっての最初の教え子が、亡くなってしまった。

僕が20歳の頃。パッとせずフラフラしていたとき、アルバイトで気軽に始めたサッカーコーチ。「サッカー教えてお金もらえるなんて最高じゃんか」くらいの軽いノリでバイトコーチとして雇ってもらったのがコーチ人生の始まりだった。

先輩指導者の下につき、アシスタント的な立ち位置でコーチを始めたそのクラブに、横山知伸という少年がいた。

そこから4年間、彼が小学3年〜6年生の間ずっと、彼と一緒に毎週サッカーをした。コーチを始めたばかりでまだ指導なんてものは何もできず、コーチらしいことなどは何もしてあげられなかったとは思うけれど、サッカーコーチって楽しいな、やり甲斐すごくあるな、ひょっとしたら自分に向いているのかも、、と思わせてくれたのは、彼をはじめとする、当時一緒にサッカーをしてくれた選手達のおかげなのは間違いなくて、これは今でも本気でそう思っている。

当時の知伸は、ひと言でいえばやんちゃ風のサッカー少年。ボールを持てばひたすらドリドリ、隙あらば股抜いちゃうぜという典型的なドリブラー。左足でボールを持ち始めてスルスルっと相手を抜いていき、長いリーチを活かしてボールは奪われず、ゴール前でのシュート能力も高い、荒削りではあるけれど、非凡な選手だった。

確か彼が小3のときかなぁ、夏合宿に行った先で街の花火大会をやっていて、みんなでそれを見に行った日。彼を肩車して花火を見せた思い出は、なぜだか今でもずっと覚えてる。

ある大会の日、確か彼が小4のとき。先輩指導者が来れずに自分が指揮を任された日があった。自身初めての体験。自分なりに必死に考えてポジションも決めて試合に臨んだけれど、当然うまくいかず自分も子ども達に対しほぼ何も助けてあげられずに苦戦した試合。でも彼が起死回生の同点ゴールを決めてくれて、PK戦でも彼が最後に決めてくれて勝利に導いてくれた。
自身初めての監督の日に、助けてくれたのが彼だった。

6年生までそのクラブで一緒にサッカーをして、その後彼は地元のジュニアユースクラブに進む。そして自分はそのクラブを辞めた後に地元の出身中学でサッカー部のコーチをしていて、そこに、彼のクラブが練習試合をしに来てくれたことがあった。知伸が中3のとき。とんでもなく身長が伸びていてびっくりしたけれど、そこで久しぶりに再会できて、会場に着くなり「久保田コーチ!」と声をかけてくれてたくさん話もできた。あの日は嬉しかったなぁ。

彼と話をしたのは、その日が最後になってしまった。

その後彼は東京の名門・帝京高校に進み、高3時には正月の全国高校サッカーにも主力として出場。怪物・平山相太を擁する国見と対戦した準々決勝で、久しぶりに彼の試合を生で観た。
サッカー推薦で大学に行けず、一浪して早稲田大学に進み、一般入学ながらサッカー部でも4年次には主力となった。これ、何気にすごいことですよね。

大企業である野村證券への就職が内定していたけれど、インカレでの活躍が認められて土壇場で川崎フロンターレからのオファーを受け、内定を蹴ってJリーガーになったあの経緯は当時話題にもなったほど。

その後の彼の活躍は、もうここで僕が書く必要もないと思うし気軽に書いちゃいけないのかなとも思う。最初の教え子とか言いながらも、恥ずかしながら彼のプロでの試合を観に行ったことは結局一回もなかった。もちろんずっと状況は追っていたし、移籍をするたびにずっと気になっていたけれど、自身の忙しさにもかまけ、大切な最初の教え子、しかもさまざまな経緯を経てJリーガーになるという夢を叶えた尊敬すべき横山知伸の勇姿を、僕は一度もこの目で見ることはできなかった。今思えば、これが心残りでたまらない。この後悔は一生引きずると思う。知伸、本当にごめんね。

プロになってからの彼のことは、きっとこんな僕よりも彼が在籍したクラブのサポーターの方々のほうが詳しいでしょう。川崎フロンターレ、セレッソ大阪、コンサドーレ札幌、大宮アルディージャ、FC岐阜。
各種SNSを見ると、これらのクラブのサポーターの方々が、彼の訃報に対したくさんの追悼メッセージを送ってくれていた。それらのメッセージを読むたびに、あぁ、あいつはいろんなところで愛されていたんだなという想いに駆られる毎日です。

あのとき知伸のゴールがクラブを救ってくれた、という投稿がいくつもあった。クラブの降格危機を救うゴールを決めたというその事実は、きっとこれからもサポーター達の心に残り続けていくんだろう。彼が生きた証を、どうか皆さん忘れないでやって下さい。

母子家庭で育った彼だから、子どもの頃から本当にお母さんを大切にしていた。当時若かった自分も、知伸のお母さんにはとてもお世話になった。当時はまだ若くて車を持っていなかったから、試合の後などに駅まで送ってもらったことも何回もあった。あの当時のチームは本当に皆が仲良くてファミリーのような雰囲気で、みんなで一緒にファミレスにご飯を食べに行ったりとかしたのもいい思い出。
僕が監督をする日に僕の母が試合を観に来て、試合の合間になぜか知伸をはじめとする選手達のお母さん達と僕の母で一緒にお昼ご飯を食べに行っていた、なんてこともあった。
女手ひとつで知伸を育てたお母さんも、もうきっと高齢になっている。今はお母さんのことが心配でたまらない。残された奥さんと、3人のお子さんのことも。

知伸と一緒にサッカーをしたあの4年間で、コーチの楽しさを知った。幼少期から大人になるまで自分に何ひとつ自信がなかった僕が初めて「この仕事、自分に向いてるかも」と自信を持てた。だからその後に専門学校にまで入学して、本気でこの仕事を続けていこう、とも思えた。

だから僕にサッカーコーチという仕事の楽しさを教えてくれて、今でもこうしてサッカーコーチを続けていられるその恩人は、知伸をはじめとするあの当時の選手たち。その恩は決して忘れないし、知伸のことも一生忘れない。

知伸、本当にありがとう。そして、試合を一度も観に行けずにごめんね。
どうか安らかに、天国でたくさんボール蹴って下さい。
俺もいつかいくから、その時はまたサッカー教えてね。

横山知伸というサッカー選手がいたということを、皆さんもどうか忘れないでいてやって下さい。


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