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ニル婆と私(10)

【どうか嘘だと言ってくれ】

「……いってきます」
 絞り出した六文字はほぼほぼ義務感によるもので、私は本当なら今すぐ学生鞄を投げ出して、その外出を放棄したかった。しかし時は無情にも七時四十五分。今すぐ家を出なければ、遅刻確定だ。昨日みたいに都合よく発熱しなかった以上、私には学校に行く以外の選択肢は残されていない。勝手に欠席して担任から連絡がいった日には、母親が激怒するにきまっているからだ。
 他の生徒と比べれば短い方に入るだろう通学路を、憂鬱そのものの心持ちで辿っていく。
『大海を知れ』
 厳かにそう告げるニル婆の顔が、頭の中に強く焼き付いていた。
 整理のつかない箇条書き状態の感情たちが、ばらばらと私の中に散らかっている。あのババアの言うことに縋るのは癪だけれど、今はそれより他に道がないのだ。さぁ、私はどうすればいい。どうすれば。どうすれば。
 鞄の中のクリアファイルに入った『例の紙』のことがどうしても気がかりだった。書き直した第一志望欄のこと、本当は今でも迷ってる。だって正解なんてあるはずのない問いに、回答しろなんてそもそも無理な話じゃない?
 突き刺すように降り注ぐ初夏の日差しも、絵に描いたような青空もなんにも嬉しくなかった。いっそ雨でも降ってりゃよかったのに。私だったらこのシーン、絶対雨にするよ。そんなことを思いながら学校までの道のりを歩く。何人かの同じ制服を着た生徒に追い抜かされるけど、挨拶をかわすことはない。
 ひとり悶々としているうちに、とうとう私は職員室へと辿り着いてしまった。
「……失礼します」
 ごくごく小さな声でそう言ってから、室内に入り、担任教師の机の前へ向かう。
「宮木さん。どう? 進路希望、書けた?」
 かけられた問いに、こくりと浅く頷く。
 鞄の中から取り出した紙を、ええいもうどうにでもなれという気持ちで突きつけた。
「……うーん……」
 渋い顔をした先生は、例の『第一志望』の項目を指さしながら訪ねる。
「このANK学園って、何かしら?」
「専門学校です。ここの、ライトノベル専門コースに通いたくて……」
 私は心の中で何十回も練習した受け答えを、必死になってなぞった。
 苦笑のように変化した先生の表情から、それが彼女の望む答えではなかっただろうことは簡単にみてとれる。それがどうした。私の人生は私が決めるんだ。あんたの知ったこっちゃないだろう。
「クリエイターになりたいって子、多いけどね。厳しい世界よ」
 そんなわかりきっていることを、上から目線で語る担任にイライラした。厳しい世界よ、って、そんなの一次選考落選組の私がわかってないわけないじゃないか。
「……だから、その為に勉強しようと思って、専門学校に……」
 言いながら少しずつ両目が潤んでいく。
 大海を知れ。ニル婆のその言葉を自分なりにかみ砕いて、出した答えだった。どうしたって私はこの夢を譲れない。応援してなんて言わないから、ただ、受け入れてくれれば、それでいいのに。どうして――。
「その道で食っていけるのは、ごく僅かな人たちだけだから」
 先生は相も変わらずわかった風な口で、どうやら私を諭し、改心させるつもりらしい。しゃらくせぇ。正義を振りかざしながら生徒の夢をその手でへし折る偽善者が。
「A組の牧瀬さんみたいに、在学中に賞でも取ってたら、話は違うんだけどね」
 いきなり飛び出したその名前に、私は思わず両目を真ん丸にひん剥いた。例のイタイ漫画少女が、なんだって?
「彼女、漫画雑誌のコンクールで賞を取ったらしいじゃない。……ネーム? っていうの? 漫画の原作を書くお仕事を、既にやってるとか。それで成績も学年トップクラス。素晴らしいわよね」
 先生はそう言って、私に向かって進路希望調査票を突き返した。
「……特別に、もう少しだけ時間をあげるわ。今度はお家の方にも黙っててあげる。そうね、二週間後の三者面談に間に合うように出してくれれば、それでいいから」
 つらつらと並べられる言葉に吐き気がする。あんたはそれで、私に優しくしたつもりか? ワタシいい先生だわー、いい仕事したわー、って、すっかり自分に酔っちゃってさ。
「それほど大事なことなのよ。貴方の将来を決める、重要な決断なの」
 ぺらぺらと薄っぺらい言葉を並べた担任はそう言って、いかにも教師然としたお仕着せの笑みを浮かべてみせる。ふざけんな。生徒の心をこんなにずたずたにしておいて、何が教育者だ。
「……わかりました」
 しかし私には、そんな胸の内をそのまま口に出す勇気なんてない。
 瞬きを繰り返して涙を追いやって、俯きながら職員室を後にする。
 手の中の紙を握りつぶさないように必死だった。私の中には再び、あのどす黒い感情がぐるぐると渦巻きだす。
 牧瀬さんは、本当に漫画家だったのだ。夢見たことを現実にした成功者。同い年なのに、私とはまるで正反対だ。
 彼女は勝って、私は負けた。コンテストに? いや、人生にだ。
「……っく」
 こらえきれなかった嗚咽が一つだけ漏れた。私はそのまま近くにあった女子トイレに駆け込み、静かに鼻をすする。ぽろりと一粒零れ落ちた涙は、指の間をすり抜けて和式便器の中へと落ちていった。泣き声をかき消す為に水を流したら、それは下水の彼方へと押しやられて消えてしまう。もしかしたら、私の夢も、あの涙と一緒に、どこか手の届かないところへと――。

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