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ニル婆と私(15)

【ひとつ残らず吐いてみな】

 用事は一応済んだけれど、かといって家には帰りたくないし。
 日差しから逃れるようにして、私が辿り着いたのは図書館だった。ここだったら冷暖房完備だし、一人でいたって変に浮くことはない。
 今日は土曜日だから、この間平日に来た時よりも人が多かった。一瞬「知り合いと会ったらどうしよう」なんてひやひやしたけれど、休日にわざわざ図書館にやってくるような真面目系の子だったら、顔を合わせたところで特に問題はないはずだ。いや、それでもできることなら極力顔を合わせたくないのは確かだけれど。
 するりと自動ドアを抜けて、一般文芸のコーナーへ。とはいえ用があるのはここではない。その奥の例の私の根城だ。
 先日の静かな様子とは打って変わって、そこは中学生と思われる女の子たちのグループでにぎわっていた。図書館だからきゃいきゃいと騒いでいるわけではないけれど、「これが面白かった」「あれが最高」と抑えた声で言葉を交わしている。
 眩しいな、私も少し前はこんな風だったのかな、と思ったけれど、そういや本の話をする友達とかいなかった。これだからぼっちは。
 思わず彼女たちに混ざりたくなったけれど、そんなことをしたら不審者一直線だからやめておく。書棚を一通り眺めてそこに大きな変化がないことを確認すると、私はそのままぐるりと辺りを見回した。
 げ、と思わず声が漏れそうだった。だってあそこにいるの、今会いたくない人物ナンバーワンかもしれない、例のあの子だ。またしても自習コーナーで、一心不乱にペンを動かしている。
「――何?」
 そして最悪なことに、彼女はとても視線に敏感であるらしかった。
「なんだ、またあんたか。よく会うね」
 作業を中断し顔を上げると、ごくごく小さい声でそう言って微笑む。前回会った時よりも、少し表情が穏やかであるように感じた。
 彼女の小さな手が、おいでおいでの形で動いている。どうしよう。私は散々迷った後、「ええい」と覚悟を決めて牧瀬さんの方へと向かった。
 こうなったらもう、なるようになれだ。警戒の為くまなく観察したところ、今日彼女が使っているのは、白い紙ではなく使い古されたノートであるらしかった。
「この間のネーム、通ったの。今は別の話の案を練ってる」
 聞きもしないのに教えてくれるのは、自慢したいからだろうか? 芳しくない現在の精神状態のせいで、どうしても彼女の言動を好意的に受け取ることができない。
 ノートに書きつけられている文字は相変わらずみみずがのたくったようで、私にはどう頑張っても解読不能だった。でもここにはあるんだ、『プロの仕事』が。そう思うと、じくりと胸の辺りが痛んだ。
「……」
 シャープペンの頭を顎にあてて、牧瀬さんはなにごとかを考えているようだった。
「座んなよ」
 そしてペンの先を、座っている椅子の隣に向ける。これは、彼女と並んで腰かけろってことだろうか? 私は悩んだけれど、大人しく彼女に促されるままにした。硬いクッションの感触と、若干低すぎる椅子の感覚が懐かしい。
「――図書館、好きなの?」
 牧瀬さんは再びノートに視線を落としながら、そう尋ねた。
「……好きだよ。好き。本が好きなの」
 それは紛れもない本心のはずだった。でも、今はろくに読むこともできないんだけれどね。心の中でそう付け加えたら、泣いちゃいそうになるくらいには。
「そっか」
 牧瀬さんは短く相槌をうって、こちらを見た。赤ぶち眼鏡の向こう側から注がれる真っ直ぐな視線。うっすら茶味がかった瞳は強い光を宿していて、まるで見るものすべての真実を、見透かそうとしているかのようだった。
「――……」
 ごくり、と唾を飲み込んで、呼吸をする。
 何を、血迷ったのだろう。きっと、ニル婆があんなことを言ったからだと思う。
 彼女の話を少しは聞いたんだから、聞いてもらえるんじゃないかという打算があったのか? いや、きっとそうじゃない。私は吐き出させられたのだ。喉につかえていた異物を、彼女の瞳のもつ否応なしな強さによって。
「……あのね、」
 牧瀬さんは、その目で黙ってこちらを見つめていた。
「私、小説家になりたいの」
 彼女の瞳がきらりと光る。そこにどんな感情が浮かんでいるのかを知るのが怖くて、私は咄嗟に目を伏せながら、どのように言葉を続けるべきか考えあぐねた。

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