『ほたるいしマジカルランド』


寺地はるなさんの作品。

ほたるいしマジカルランドで働く人々の物語。

それぞれの人生を覗いて、「この人は大変だな」「この気持ちとてもわかるな」と思いながら読んでいた。

トイレに閉じ込められ、足首を捻挫してしまった村瀬くんがかわいそうだと思った。

おにぎりのサインがとても印象に残っている。自分も誰かと「その人にしかわからないサイン」を作ってみたいと思った。

自分の人生の主役はあくまで自分であり、他人の人生の脇役にもなることができる。読んだあとに「明日も頑張ろう」と思える1冊だった。


印章に残っている文

今日もまた一日がはじまる。朝に思い浮かべる「一日」は永遠と錯覚しそうに長い。はじまってしまえば、あっというまに終わるものなのだけれども。

もし何々だったら、なんてことばかり考えている人間には永遠に無理なのだ。望みを実現することなど。「なにがなんでも」という気持ちが、いつだって欠けている。

プライドにへんもまとももない。プライドはプライドだ。ぜったいに守りぬかねばならぬものだ。そうではないのか。

大きくずれているのなら「個性的な人」として認知されたのかもしれないが、いつも「すこしだけ」だった。常にぎりぎり周囲に埋没することができ、でもけっして好かれてはいない、という程度のずれ。

植物は手をかけたらかけただけ応えてくれると言う人がいるが、あれは嘘だ。植物は生きているし、自分の意思も持っている。こちらを裏切りもし、時には拒む。

最初の年はひたすら覚えるだけだ。二年目はそれをなぞるだけ。三年目からようやく、自分の仕事になる。山田はそう考えている。最初からものになるやつなどいない。

遊園地、カフェ、スイーツビュッフェ。いずれも男だけで行くのは恥ずかしい場所だ。女だけで行くのに抵抗のある場所というのももちろんあるのだろうが、そういった場所に女が足を踏み入れることはわりあい「行動力がある」といった方向で賞賛される傾向にあると感じる。その逆はない。なんでこんな場違いなところに男が、という目で見られて終わりだ。

たいていの人生は、ドラマチックではない。でも小さく変化する瞬間はきっといくつもあるのだ。電車を乗り過ごすとか、顔を上げたら虹が出ていたとか、あるいは恋人が絵本専門士になりたがっていることを知るとか。そんなちょっとしたことをきっかけに、自分の中のなにかが変化する。きっかけに気づかずに通り過ぎることもまた、多いのだろうけど。

他人は自分の人生ドラマに現れたり消えたりする登場人物のようなもので、だから当然入れ替わりがある。端役だと思っていた相手が急に重要な役をつとめたり、準主役だと思っていた相手が急に消えたりもする。生きていたらそういうことの繰り返しだ。

淳朗さんだけでなく、多くの人が言う。お菓子だけ食べて生きていくことはできないと。でもお菓子が好きな人は、お菓子とともに生きていきたいのだ。お菓子のことを考えて生きていきたい。本や映画や音楽や、そういったものも、きっとそうだ。

ともに生きていくものに、重要な意味なんかなくていい。価値なんかなくていい。食べて寝て働いて。ただそれだけ繰り返して死んでいくなんてあんまりだから。なんのためにもならないものが、ごくあたりまえに存在する。存在することを許されている。それこそが豊かさだ。市子はそんなふうに思う。

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