『その愛の程度』

小野寺史宜さんの作品。


7歳年上の子連れと結婚した豊永。ある日、家族や友人と川にキャンプに来ていて、自分の娘と他人の娘が溺れてしまう。
豊永は自分の娘を助けに行くつもりだったが、救ったのは他人の娘だった。自分の娘は他の人が助けてくれた。
この出来事をきっかけに、豊永は娘から「なぜ私のことを助けてくれなかったのか」と言われ、妻・娘との関係がギクシャクする。
最終的に豊永は妻と離婚する。その後、豊永は川で助けた他人の娘の母である結衣と親しくなっていく。


正直に言うと、結衣と豊永が結ばれてほしかった。豊永もこのままいけるはずだと思っていたと思う。

後輩の小池くんはとても面白い人だ。相談するまでの会話の流れがパターン化していて、面白かった。小池くんの相談内容に驚くことが多かったが、最終的に結婚できて良かった。

豊永は深井綾乃さんとはうまくいってほしい。


印象に残っている文

結局、大して親しくもない誰かを都合よく利用するときにつかう言葉なのだ。

養育費の支払いは義務であり、その義務は誰もが当たり前に果たしているものだと思っていた。だが実際に支払っているのは、全体の二割程度だという。

もし顔が嫌いなら、どんなに性格がよくても、その人は好きになれない。中略 逆に言えば、この人を愛しているが顔は嫌いだ、もない。

お客にしてみれば、案外いやなものなのだ。注文を聞いた者と品を運んできた者が同じなのに、カプチーノのお客さまは? などと訊かれるのは。

往々にして、そういうことはある。すべての事情をキュッと凝縮し、適切な言葉に置き換えて、わずかな時間で説明する。そんな器用なことが臨機応変にできる者など、ほとんどいない。大人でも、そうはいない。だから、思いつきで好き勝手に質問される謝罪会見の多くがわけのわからないものになる。

大げさですよ、と言われ、大げさじゃないですよ、と否定した。この種の否定は気持ちがいい。

乗り物酔いは、急に来る。出だしは徐々にだが、最後だけは急に来る。もうダメだ、と思ったときにはもうダメだ。

愛にも、たぶん、程度がある。白か黒か、愛しているか愛していないか、ではない。結局、問題になるのは程度だ。

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