『彼女の色に届くまで』

似鳥鶏さんの作品。

主人公の緑川礼は画商の息子で画家志望である。ある日、高校の同級生である千坂桜と出会い、絵画センスを見出す。


なぜこのような事件を起こすのだろうかと単純に疑問に思ったら、動機が意外なところにあった。

桜はなぜ本名ではなくペンネームを使っているのか気になっていたら、そのような真実があったとは。

終盤は礼の立場になるととても迷うだろうと思ったが、礼の決断が素晴らしいと感じた。将来2人が幸せになってほしいと思った。

風戸のセリフが毎回とても面白かった。


印象に残っている文

僕はそこで気付いた。「輝ける高校生活」は高校生になっただけで自動的に手に入るわけではなく、「仲のよい友達」の存在が必要条件だったのだ。

「おっ? あの僧帽筋は絵の奴っぽくないか」「僧帽筋で判断するのかよ」

だいたい、小学校の図画工作の授業でそういう教え方をしてくれる先生が少ないのがいけないのだ。せっかく「リンゴをピンクに描く」ことの面白さを発見した子供が「リンゴは赤です」と直されてしまっては自由な発想の芽が摘まれてしまうし、アートを規則でがんじからめのつまらないものだと誤解してしまう。

「初めまして。緑川の友人で『歩くルネサンス』こと風戸翔馬と申します」

実作者としての才能と鑑賞者としての才能は違う。作家としては天才でも、観賞の方は全く平凡な人もいる。その逆もいる。そもそもアートの鑑賞には才能も技術も知識もいらない。よく誤解されているが、本来アートというのは、ただ観たり聴いたり体験したりして面白がればいいだけのものなのだ。

そうでなくとも、だいたいアートなどをやる人間というのは、自分の作品が世界一優れており、発見され正しく評価されさえすれば世界中を席巻すると思っており、だからやたらと「ね? 俺こんな感じのことやってるんだけど」と見せびらかすのが普通なのだ。

「持ってる人をいくら羨んだって、自分の才能は一ミリも増えないんだよ」

あまり知られていないことだが、「日本画」と「洋画」の区別は「蝶と蛾」「野菜と果物」「一般文芸とライトノベル」くらいに難しい。

世の中には「お前が言うな」という言葉がたくさんある。有名人のプライバシーを勝手に撮影しておいて「有名税」と言う。飲食店で横柄に振る舞った客が「お客様は神様」と言う。デザイナーが着にくい服を作っておいて「おしゃれは我慢」と言う。それらはすべて「お前が言うな」である。

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