『目を見て話せない』

似鳥鶏さんの作品。

コミュ障な主人公である藤村京が、大学で起きた難事件を次々に解決していく話。


最初の自己紹介の順番が迫っているときの主人公の心理が面白かった。

京がコミュ障になったきっかけを読んだときは、心が苦しくなった。

カラオケの事件が一番印象に残っている。まさか「魔王」を歌う人がいるとは。

里中はとてもいい人だと思った。

あとがきで、「ラングドシャ」の発音が難しいことについて述べられていた。とても面白かった。


印象に残っている文

こんな状態ではまともに言葉が出るはずがない。喋れば絶対に「ふ、ふふふふふふいむら、みはお、す」とバグったAlexaか今際の際のHAL9000みたいになるに決まっているのだ。

他県出身者は県単位でいいが、さっきの斉藤愛菜さんとか吉田総司君がそうだったように、地元千葉県の人間はなぜか出身地を市区町村レベルで言わなくてはならない。

要するにクラスの中心にいるような人たちが使わない、つまり日常会話で出してはいけない難しい単語である。出すと会話が止まり、どういう意味? と訊かれ、説明すると「ふーん……」と薄い反応を返されて(盛り下がったわー)(なに難しいこと言っちゃってんの?)(ハイハイ頭いいアピールですねー)という視線を向けられる単語だ。

それにしてもこの店員さんもなぜわざわざ俺に話しかけてくるのだろうか。こいつはアサリの飲み込んだ砂とか誤ってコンビニ弁当に混入したプラスチック片に類する存在であるとなぜ分からないのだろうか。商売だから駄目で元々、手持ち無沙汰よりはましだということなのだろうか。それともむしろ俺みたいなゴリラをファッションに目覚めさせることに生き甲斐を感じる伝道師か何かなのだろうか。

自分を下げるということは、自分より下の人たちを勝手に、さらに下へ押し下げるということなのだ。

コミュ障にとって辛いのは「声をかけていいか」迷う親しさの人であって、迷わないくらい親しくなれば、我々コミュ障も通常人とさして変わらない。


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