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「一発、裏ドラ、赤は麻雀を運ゲーにしたのか?」......の話の前に、まず「運ゲー」とか「競技性」とかって何やねんって話

皆さん、麻雀打ってますか? 「Yes」と答えてくれた方々の大部分は、おそらく赤有りルールで麻雀を打っていることでしょう。
巷の雀荘のフリールールで赤の入ってない店とか今どき皆無に等しいでしょうし、人気ネット麻雀の雀魂、天鳳でも段位戦は赤有りオンリーです。天鳳も昔は赤無し卓があったように記憶していますが、いつの間にか無くなってますね。
今どき赤無しルールで麻雀が打たれているのは仲間内のセットかプロ団体による競技麻雀か、客層がご年配に偏ってる健康麻雀ぐらいでしょう。

で、なんですけど、麻雀やってると定期的に議論になるお話として「赤有り麻雀とか運ゲーじゃん」ってのがありますよね。皆さんも一度は触れたことがあるのでは無いでしょうか? 実際に人と議論したことは無くっても、麻雀打ちなら誰しも一度この辺の話を考えたことあると思います。

「赤有り麻雀は打点を上げやすいので高打点の手役作りの難易度が減る上に、他家の打点に対する不確定要素も大きくなるため読みの価値が下がり、結果的に実力が出づらく運ゲーになりやすい」

という論理です。概ね「競技性が低下してつまらなくなる」「単なるギャンブルになる」という文脈で批判的に用いられます。特に赤無しルールで育った年配の麻雀打ちの方にこうした意見の人が多い印象がありますね。
実際、プロ団体の公式戦は基本的に赤無しルールで行われています。(その例外がMリーグという所がややこしい話ではありますが)
ただし逆に、「赤の有無という要素が増えた分、選択肢が広がったので逆に競技性が増してる」という主張もあったりするのが難しい所で、赤有り赤無しのルール比較に関しては実質的に水掛け論にしかなっていないのが現状のように思います。

さて、このような赤ドラの有無以前に、似たような議論はも麻雀の歴史の中で何度も何度も繰り返されてきた話だったりします。
一発裏ドラや、それこそドラの存在そのものやリーチについても発案された当時は「そんな事をすると競技性が低下してただの運ゲーになる」という批判にさらされたそうです(もちろん「運ゲー」という言葉は当時ありませんでしたが)。
実際、最大規模のプロ麻雀団体である日本プロ麻雀連盟では今でも公式ルールでは一発・裏ドラ・槓ドラ無しで行われています。

一方で皆さんも御存知の通り、こうした不確定要素や打点のインフレ要素は、概ね市井の麻雀ファンには歓迎され定着されてきました。
麻雀打ちなら大概の人が同意するでしょうが、麻雀において最も興奮する瞬間と言えば、ド高い手でリーチをかけて他家のリーチとめくり合いをしている最中でしょう。どちらかが和了るまでひたすら機械的に山から牌をツモり続けるだけなのでもはやそこに競技性もクソも存在しない訳ですが、麻雀というゲームにおける最大の快楽発生源は紛れもなくこの単なるギャンブルなめくり合いにあるのです。
手作りの構想力や押し引きのバランス感覚、手牌読み山読みの推理力など、競技性から来る快感も間違いなく麻雀には存在しますが、よりプリミティブな麻雀の快楽は紛れもなくめくり合いのギャンブルにあり、その中毒性が我々を麻雀に繋ぎ止めていると言っても過言ではありません。
麻雀において歴史的に追加されてきたルールの多くは、概ねこの「めくり合いの興奮」を高めるために導入されていったと言っても良いでしょう。
娯楽としてのボードゲーム全般において、不確定要素の導入は競技性を低下させるかも知れませんが、むしろ場を盛り上げる魅力でもあるのです。
そのため麻雀界では伝統的に、市井の雀荘などで自然発生的に新ルールが生まれ、人気が集まり一般化していく一方、競技団体は旧来のルールを守ろうとして団体ルールには取り入れず、結果的に一般の麻雀打ちと競技プロとの間で乖離が起きるという現象が常におき続けています。
概ね、市井の麻雀打ちの間で定着したルールが競技団体の公式ルールに反映されるには、2〜30年程度のラグがあるようです。

このような理由により、不確定要素を持った種々の追加ルールによって競技性が低下するという問題は、競技プロと一般の麻雀ファンとの間の乖離という難点を孕みながら、常に麻雀界における議論対象となっていた訳です。

さて、そもそも論ですが「不確定要素を増やすと競技性が低下して運ゲーになる」というこの一般論的論理、確かに一見もっともらしくも聞こえますが、実は反論意見も結構あったりします。

例として、youtubeでの活動が盛んな天鳳位のヨーテル氏が自身の動画にて以下のような説をとなえています。(文章は私の意訳)

「麻雀のルール上、見かけ上の不確定要素を多少変えても運と実力の割合は大して変化しない」
「不確定要素(一発、裏ドラ)を減らしてもその分実力の割合が増えるのではなく、結局は他の不確定要素(配牌、表ドラ)の割合が大きくなるだけ」

同じくyoutube活動が盛んな麻雀クリエイターの平澤元気氏も、赤の有無による競技性の変化について「よく分からんというのが結論」と言いながらも

「赤ドラの使い方という技量が要求されるようになるけど、その分だけ手役作りの技量要求度が下がるので、結局実力要素が増減してるとは限らないのでは?」

と、これまたヨーテル氏と近い議論をしています。

こんな感じで、麻雀における運要素と実力要素とのバランス問題に関しては現在も多種多様な意見が乱立してたりするのが現状な訳です。


さて、ここまでが今日のお話の前置きで、ここからが話の本題となります。

上記の議論においては「運ゲーになる」「競技性が下がる」「実力差がでなくなる」という言葉が度々出てきますが、概ねそれらの言葉が指している内容は同一の意味でしょう。
なんですが、実は前々から私は「これって2つの話がごっちゃになってないか?」と考えてたりしたんですよね。
という訳で今日は、その辺の話について一度まとめておこうと思ってこの記事を書いた次第です。

そもそもあるゲームがどの程度運ゲーか、どの程度実力が反映されているかに関しては、どのようなデータがあれば判定できるでしょうか?
最も合理的かつシンプルな判定方法は、プレイヤー集団における成績分布のバラツキによる判定でしょう。
4人対戦型のゼロサムゲームの場合、十分な数のプレイヤー集団が十分なゲーム数を行ったと仮定すると、各プレイヤーの平均順位は2.5を中心とした正規分布に概ね従うはずです。

この分布グラフの形状によって、そのゲームがどの程度運ゲーかというのが分かる訳です。

もしグラフが非常にシャープで縦長の形状をしていれば、大部分のプレイヤーが長期的には平均順位2.5に収束しているという事を意味するので、そのゲームが完全な運ゲーであると結論づけられます。
仮に「4人のプレイヤーが同時にサイコロを振り、出目の数で順位を決める」というゲームがあったとしたら、その場合の平均順位分布はそのような形状になるはずです。
逆に分布グラフが横長のブロードな形状をしていれば、厳然とした勝者と敗者、強者と弱者が存在している事を意味しますので、そのゲームはプレイヤーの実力によって成績が大きく左右されるルールであることが結論づけられます。

(これグラフ正規化されてる?って思った人、正しい。見やすさ重視でテキトーにパラメータ振ったので、2グラフの総面積はかなり違う)

という訳で、麻雀の場合この分布グラフがルールの違いによってどう変化するかを見ることで、ルールごとの「運ゲー度」だか「競技性の度合い」だかを比較することが可能なはずです。
実際そういうデータがどこかにあるのかと言うと正直ちょっと分からないですし、この手の議論であんまりエビデンスとして持ち出されることも無いので、無いんじゃないかなあと思ってたりします。

加えて言えば、ある程度信頼しうる分布を得るためには膨大な実戦データが必要になり、そのような実戦データの入手先は実質的にネット麻雀一択にならざるを得ないのですが、ネット麻雀の場合一般的に段位やレーティングによって実力の近いプレイヤー同士しかマッチングしないような設定になっています。
つまり平均順位の分布関数がなるべくシャープになるような仕組みに元々なっているので、生データで単純議論して良いのかという問題もあると思われます。

そんな訳で麻雀の各種ルールにおける競技性への影響については、結論が出ていないというのが現状のようです。
(ただ、一発裏ドラはともかく、赤の有り無しに関してはかつては天鳳にも赤無し卓があったはずなので、ある程度比較できたりしないかと思っているんですが、どうなんでしょうね?

で、なんですが、「運ゲーになる」「競技性が下がる」「実力差がでなくなる」という言葉で評価されるものには、実はもう1種類の話があるのではないかと思うのです。
それは「各プレイヤー間の成績分布」ではなく「ある1人のプレイヤーの成績分布」です。

当然ながら麻雀はそう簡単に実力が成績に直結するものではありません。正確な実力を測ろうと思えばそれなりの数のゲーム数が必要になります。
仮にあるプレイヤー、ここでは仮にA君としましょう。A君の「真の」平均順位(周囲のプレイヤーも本人も実力が変動しないままで無限回のゲームを行った時の平均順位、という仮想的な数値)が2.4だったとします。平均順位2.4は麻雀においてその集団でかなりの強者であることを意味しますが、それこそ20戦やそこらのゲーム数では平均順位は場合によっては平気で2.0以下や3.0以上になったりします。

という訳で、20戦ごとにA君の平均順位を算出してデータ化することにしましょう。2000戦打ってもサンプル数は100にしかならないので、信頼持てる分布を出そうと思うとかなり気の遠くなる話ではありますが、実際に膨大なゲーム数を行えば、「20戦平均順位」の分布グラフが得られるはずです。(20戦という数字そのものにあまり大した意味はありません。あくまで1つの例としてです)
おそらくそのような成績分布も概ね正規分布に従うでしょう。

ある20戦を取り出した際、概ね「真の平均順位」の2.40となってる20戦が最も多く、2.40から外れれば外れるほど、そのような20戦の数は少ないはず、というグラフですね。

このグラフはあくまで「A君自身の成績のバラツキ」を示した分布です。先程の「各プレイヤー間の成績のバラツキ」のグラフとよく似ていますが、本質的には全く別のデータです。

先程の分布ではグラフがシャープになるほどに運ゲーと言えるようになる、と説明しましたが、今回の分布では話は逆になります。
グラフの形状がシャープであれば、「20戦打てば概ね真の平均順位=実力に近い成績が得られる」という意味になり、少ないゲーム数で実力がハッキリ見えるという結論なので、競技性が高いと言えそうです。
逆にグラフの形状がブロードであれば「20戦程度では真の実力とはかけ離れた成績にいくらでもなる」という意味になり、運の要素で実力がかなり紛れてしまう訳ですから、運ゲーに近いという結論で良さそうです。

なのですが、今言った「競技性が高い」「運ゲーに近い」という話が、先程の分布グラフでの議論とは本質的に別の話であることに気付かれた人も多いのではないでしょうか?
仮に上の「A君の20戦平均順位」のグラフがかなりブロードであり、真の実力からかけ離れた成績が短期的に得られてしまうとしても、長期的にはA君の真の実力はあくまで2.4という数字なのです。A君がれっきとした強者であること、すなわちゲーム自体が「実力によって他プレイヤーより良い成績が出せる実力ゲー」であることには変わりありません。
逆に20戦平均順位グラフがいくらシャープであったとしても、その平均値(グラフの中央の値)がどのプレイヤーも2.5付近に狭く収まっているようであれば「プレイヤー間で実力差の出ない運ゲー」と言わざるを得ません。

なのでここで述べた2つの話、つまり「短期的にあるプレイヤーの実力が反映されづらい」って話と「長期的にプレイヤー間での実力に差が出づらい」って話とは、もちろん一定以上の相関は確実にあるはずではありますが、似ているようで本質的には別の話なんですよね。
この本来は別の2つの話が、麻雀のゲームごとの運要素とか実力要素とか競技性だとかを議論する時に、しばしばごっちゃにされてる気が以前からしている、というのが私の主張な訳です。

で、こっからは私の完全な推論なんですが、一発や裏ドラや赤とかの影響って、主に後者の「あるプレイヤーの成績のバラツキ」に対するものが主であって、前者の「各プレイヤー間の成績のバラツキ」に対してはほとんど影響してないんじゃないか?って気がするんですよね。

これは私自身が三麻に対して感じたことだったりします。
始めて三麻をやった時に多くの麻雀打ちが同じこと思うんじゃないかと思うんですが、四麻に比べて点数がインフレしすぎで「流石にこれ運ゲーだろ」と私自身思ったりしたものです。
確かに打点が簡単に上げれるので大逆転も頻繁に起きちゃうので、勢い運ゲーすぎに見えるんですけど、実際ある程度長く打ってると「このミスが無ければラス回避できてたな」とか「ここがちゃんと読めてればトップあったな」って反省も結構多くて、「数重ねればかなり実力ハッキリ出るなこのゲーム」って思うようになったんですよね。

確かに不確定な打点向上要素を増やすと、順位の入れ替わりが起こりやすいので短期的には実力差が運でいくらでもひっくり返る運ゲーになるかも知れません。
しかしながら長期的にはプレイヤーごとの運の偏りは均一になるので、そこでは実力がしっかりと出るようになっているのでは無いでしょうか。
そういう意味では、年間せいぜい100戦未満でタイトルを決定するプロ団体の競技麻雀の場合、極力短期成績のバラツキが小さくなるようなルール設定にするのは合理的と言えるかも知れません。しかしながら、だからと言ってそうした競技ルールに比べて、必ずしも市井の一発裏ドラ赤有り麻雀が「競技性が低く実力差が出ない運ゲー」だということを単純に意味する訳ではないのではないでしょうか?

もちろんこれはあくまで単なる推論に過ぎないので、実際にデータで議論してみないと正確な所は分かりません。ひょっとしたら実際に長期的な実力差が小さくなっているかも知れませんし、逆になんなら短期的な成績ブレも別にそこまで変わっていないのかも知れません。
ただ、だとしても、私が本記事で述べた「短期的なあるプレイヤーの実力の反映されやすさ」と「長期的なプレイヤー間での実力差の出やすさ」との峻別は、麻雀のルール議論においてかなり重要な視点になるのではないかな、と思う訳です。


という訳でいかがだったでしょうか? 
私もこの辺の議論が過去にわたって麻雀界でどの程度行われてきたかについて、そこまで網羅的に分かっている訳ではないのですが、ザッと見た感じこうした視点での議論はあまりされてないのかな?という印象だったので折角なので記事化してみました。
「いやいやそんなんとっくに指摘済みで、皆それ前提で議論しとんねん」とか言われたら素直にごめんなさいするしかありませんが、もしこの記事が何がしか皆様にとって有益であれば嬉しい限りです。

最後に宣伝(?)ですが、純粋な麻雀記事はnoteに書くことにしようと思ったので、こちらで記事化しましたが、普段はブログで漫画やアニメの批評感想記事とかを主に書いてたりします。
麻雀についても「麻雀漫画」という括りで以下のような記事書いてたりします。初心者向けという形で書いてますが、ある程度麻雀に詳しい人でも楽しめる内容になってるんじゃないかと思うので、もし興味保たれた方は是非読んで頂けると大喜びします。

それでは本日はこの辺でー。


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