実写版リトルマーメイドの感想

 この文章には現在公開中の実写版リトルマーメイドとオリジナル版のネタバレを含みます。 

 実写版リトルマーメイドを見たのでその感想を書きたいと思う。
普段映画の感想なんてNoteにも書かない。映画についてまとまった文章を書いたのなんて、大学生のころに『Stand by Me ドラえもん』をみてキレながらAbemaブログに書き散らして以来じゃないだろうか。

 じゃあ、今回も実写版のリトルマーメイドにキレ散らかしているかといえばそうじゃない。昨晩レイトショーで映画を観た後、なかなか映画の感想を頭の中でまとめられなかったので、帰りの電車でDisney+で1989年のリトルマーメイドを見たら面白すぎて2駅乗り過ごした。
(都民にはわからないと思うが千葉で2駅乗り過ごすということは1時間弱歩かなければいけないことを意味する)

 しかし、電車に乗り過ごしたおかげで無事映画をすべて見ながら徒歩で自宅に帰ることが出来た。(STOP 歩きスマートフォン)そして今回の実写版リトルマーメイドについて現時点で自分なりに言葉にすることができたので記念にNoteに記録しようと思ったのだ。

(以上前置き)

 予めいうと筆者は今回のリトルマーメイドにおいて巷で雑に語られているようなポリティカルコレクトネスの論調には与しない。もちろんポリティカルコレクトネスそれ自体に問題が含まれることはあるのかも知れない、しかし今回の実写版とオリジナルアニメーションをみれば映画の問題はそこではないことは明白だからだ。
(但し、オリジナルアニメーションとアリエルや仲間たちが好きすぎるが故の今作を否定したくなる気持ちは理解する。)

(以上前置き2)

 更に予め言わせて貰えば、ここまでの文章を読んでもらってわかるかと思うが熱心なリトルマーメイドのファンではない。ディズニーには半年に一回しか行かないし、行きたくなったら一人でも行く。小学校の頃は近所の蔦屋でグーフィーのアニメを20回はレンタルしてるし、DVDも持ってるし、フィニアスとファーブ、特にカモノハシペリーが好きで大学生の頃はパーカーにバスタオルにトートバックまで完備して時には大学にも着て通っていた程度だ。
 何が言いたいかというと、ディズニープリンセスとは少し縁がなく、その点で以下の映画に関する感想が的外れになっているかも知れないということ。

(以上前置き3)

漸く本題。

 今回のスタッフはオリジナルを実写化するにあたっては、当たり前だが避けて通れない道として、
①オリジナルの現代へのアップデート
②人物描写に厚みを持たせること
③それに伴い物語のリアリティラインを再設定する

この3点をクリアする必要があった。

 ①どうしても今となってはアップデートせざるを得ない舞台設定の都合、例えばオリジナルでは一貫しているシンプルなラブストーリーでは昨今なかなか観客に受け入れられ難い面もあるだろう。型にハマったような役の設定自体もよろしくない。etc…etc….。

①を成立させるにはどうしても②が必要になってくる。物語上残さざるを得ない、設定を捕捉する為には一人一人に存在する理由を作らないといけないからだ。

 この①、②をクリアし、観客にスムーズに物語に入ってもらうには、設定なのか、ストーリーの必然性なのか、映像の作り方でもなんでも良い。どんな手法を使ってもいいので説得力を持たせる必要がある。
 
 (という点でオリジナルのリトルマーメイドやアリエルが好きすぎる人の中にはそれだけで集中出来なくなる人がいるのも理解できる。その点、そこまでリトルマーメイドに今まで興味の無かった自分は幸運なのかも知れない)

 話を戻す。今回、オリジナルから現代へアップデートする際に、脚本上大きく踏み切った点がいくつかあると思う。
 
 ひとつは話す生き物と話さない生き物で区別をつけてしまったこと。原作では、ペットのワンちゃんを除いて基本的にはセバスチャンら仲間の動物と同様に意思のある生き物として描写されている。
 その上で生き物を食べる描写を原作は描いている訳だが、昨今の動物愛護の流れでは意思のある動物を食べる描写を描くことは難しいだろう。その中で、意思のある特別な物語上の動物と意思のない動物を分けざるを得なかった。物語の導入、鳥のスカットルがいきなり小魚を食べるシーンは意思のある動物ない動物がいる世界だということを強烈に印象づけるシーンだ。
 しかし、これがうまく機能していたかというと素直に肯定はできない。目の前で同じ魚類の魚が食われているのに鳥のスカットルと仲良く話すフランダー。可愛いカニと化したセバスチャンが登場したかと思えば同じ甲殻類の可愛いエビをむしゃむしゃ食べるアースラ。人間になったアリエルとおなじアミで収穫される魚がいるのにセバスチャンだけ逃すアリエル。個人的にここのリアリティラインの設定は受け入れにくいものがあった。

 もうひとつの大きな変更は、陸に上がってからのアリエルの設定だ。オリジナルではアリエルは魔女アースラに声を失ったらどうすれば良いと問うとアースラは「アリエルには美しい美貌もある。男は喋らない女がいい。ボディランゲージで責めろ。」とこれまた現代でそのままやるには難しい言葉で丸め込まれていた。
 美貌はルッキズムであるし、男は喋らない都合のいい女性が好きというのはよくないのは理解できる。ただ、ボディランゲージまで設定上奪ってしまったのは良く無かったと思う。実写版のアリエルではアリエルの魅力が陸に上がってからとても失われてしまったように個人的には感じられた。
 ただ、ボディランゲージ的な表現を薄めなければならないのも理解できる。王子の家族やその周りの従者、国民などもオリジナルに比べて実写版ではより現実らしく描かれている為、アリエルが身振り手振り駆使して何か伝えようとすれば、何かしら伝わるだろう。
 しかもアリエルは沈んだ本を読みながら(羊皮紙とインクって沈んでも読めるんか?)「「火」ってなに?」と言ってる訳で文字も読めるなら余計に伝わる。
 その問題を回避するためにアスーラはオリジナルに無かった忘却魔法を追加でかけないといけなかった。
 でもセバスチャンは魔法にかけられているのを知っているから説明するのかと思うと多分それが効かない設定なんだろうかスルーしてアリエルは寝てしまう。

 ほかにも細かい設定の変更は多くある。ただそれの多くがうまくいっていないのではないだろうか。
 これはやはり、ポリティクスコレクトネスではなく、過去のアニメーションを実写リメイクをするにあたってディズニーが壁を越えられていないんだと思う。
 ディズニーの過去の作品は今見ても素晴らしい名作だ。それを実写というフォーマットに変換して、かつ現代の価値観に合わせなければならない。しかし名作の中にはどうしてもシンプルなストーリーの構造やステレオタイプの価値観と不可分であることが多々ある。
 身振り手振り思いを伝えようとするオリジナルのアリエルは男に媚を売るようなキャラクターでもなく、素直に思いを伝えようし行動するヒロインだったと思う。実写版のアリエルもアスーラのペンダントを自らの手で引き剥がし、自分の手で船を操縦して物語にケリをつける強い女性だった。新旧のアリエルは別人だろうか。
 自分はこの二人のヒロイン像は共存できるものだと思っている。まだ今のディズニーはその二人を繋げる手法を見つけきれていないだけだ。そう遠くない未来。ディズニーのクリエイティブはきっと見つけるだろうし、もしかしたら新しいヒーロー、ヒロイン像を先に示してくれるかもしれない。

 今回の実写版を見た人でまだオリジナルを見ていない人はすぐに見てほしい。きっと過去の名作と対峙して現実解を作り出そうとしたスタッフのチャレンジを感じられるはずだ。そして名作を味わうことができる。まさに一石二鳥。

 最後に3000字以上読んでくれた皆様と、考えて文章を書く機会をくれたディズニーに深く感謝して締めたいと思う。いい映画体験でした。ありがとう。
 
 




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