「とびっくら」に見る流儀(1)


 「飯田弁に見る飯田人の流儀」と題して、この先々具体的な飯田弁の語彙や句表現を通して、飯田弁の妙味の一端について筆してみようと思う。
 と、こう言っても、多くの読者氏は「流儀だなんて、そりゃ、どういうことな?」と、いぶかしく思われることだろう。私としては、ことさらに気取ったお題目を唱えて、変わった言い立てをしようなどとするものではないのである。飯田人たちが使っていることばには、飯田人の認識に裏打ちされた、それなりの流儀と見るべきがある――と思われるのである。
 されば、私としては「飯田弁にはそれなりの流儀があるのだ」と感じるところを、この先に少しずつ書きつけてみようというのだけれど、そうした趣意をできるだけ早く諒解しておいていただければと思っている。
 そこで、まずは手始めに「とぶ」ならびに「とびっくら」なる語を取り上げて、そこから私の思っているような事柄を云々してみようかと思う。
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とぶ〔tobu〕〔飛ぶ〕【五段動詞】《低高》
 「あっ、書類を持ってくるのを忘れた」
 「おい、大事なものを忘れちゃぁ、困るじゃないかな」
 「まだ時間があるで、とんでって取って来るもの。先に行っとってくんな」
 「ああ。そいじゃ、早いとこ取りに行っといな」
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 漢字で表記するとなれば、一応は「飛ぶ」と書くことになるだろうところだが、だからといって「空を飛ぶ」のではない。かといって、ジャンプして「跳ぶ」のでもなくて、動作としては「走る」ことをさして言って来ている語である。
 「走る」ことを「とぶ」というのは、南信濃ではあまりに当たりまえすぎて、疑問に思いながら使っているような飯田人は、おそらくはいくらもいないだろう。しかし「地上を走ることが、なぜに「とぶ」ということになるのか」と、ことあらためて尋かれるならば、不可解かもしれないと思う人がいないでもないだろう。
 いいや、いいや、この「とぶ」ということばにあっては、首を傾げなければならないようなことは、まだ他にもあるのである。だが、そうした云々に進むまえに、いまひとつ「とびっくら」という語にも触れておこう。
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とびっくら〔tobikkura〕〔飛び―〕【名詞】《低高高高高》
 「ほい、おたくの娘は、運動会のリレーに、選手で出るんだってなぁ。たいしたものじゃないかな」
 「そうな。とびっくらだけは得てとるんだに」
 「おまえさんも、若い時は足が速かったのかな」
 「いんね。きっとおじいちゃに似たんずら。おじいちゃは『俺は、運動会じゃあ、とびっくらはいつも一等だった』って、なにかっちゅやぁ自慢しとるで」
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 運動会における花形の競技のひとつとして「かけっこ」がある。もっとも、走るのが苦手だとなれば、無くなってしまえばいい種目だなどと思う子どももいたり、かつてそんな思いを抱いていたという大人たちがいたとしても、わからないでもない。とにもかくにも、南信濃にあっては、そのような運動会などで行なわれる「かけっこ」をさして、「とびっくら」と表現して来ていた。さすがに今日では、運動会のプログラムに「とびっくら」として掲げる学校は稀だろうけれども、かつてはべつだん奇異なことではなかった。
 「飛び較べ」が転訛して「とびっくら」という語が成立したのであろうことも明白である。その背景として、南信濃では「走る」ことを「とぶ」といって来ていることがある。あるいはまた、同じように「走る」ことを「かける」といっても来ている。されば、古めかしい表現の「とびっくら」には遠慮してもらって、新しい学校制度のもと、新鮮でおしゃれな語感の「かけっこ」に置き換えて使って来ているのだ――などといった説明に対して、多くの飯田人は〈なるほどそうもあろう〉と同意もし、そうしたことに対してことさらに思うことは無いかもしれない。
 だが、私には、思われることが少なくないのである。そうした思いを、次回以降につづけてみようと思う。そんな云々に先んじて、読者氏にあっては、できることならばちょっと心に留めてみてほしいのである。
 「とびっくら」を言い換えるにしても、なぜに「かけっくら」ではないのか、あるいはまた「はしりっこ」でも「はしりっくら」でもなかったのか。……といったことを、である。


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