風越亭半生と飯田弁(Ⅳ)

   風越亭半生が歩き始めた……の条
 二〇〇五(平成十七)年の六月二日――六月の最初の土曜日に「飯田ふるさと講談」が開かれて、私は風越亭半生を名乗って出演した。昼夜二回高座に上がって、飯田弁の漫談を演じたのであった。当日のプログラムにあっては、神田山陽の後を継いで講談協会の会長の任にあった神田紅と、預かり弟子の神田陽司という二人の本職の講談が据えられてあった。私の出演はというならば、もとより当然のことであるのだけれど、ホンのご愛嬌という扱いであった。
 その日その時の「飯田ふるさと講談」で、私は「はあるかぶりの秘密」と題した漫談を披露したことだった。芝居がかりの漫談を演じたのだったが、それなりに受け止められて、私は面目を失わずに済んだのであった。その時点では、そう思ってホッとしたのであり、それで終わり――と思ったのである。
 ところが、またまたそれが、新たな繋がりを生み出したのだった。まるで菌糸が先へ先へと伸びて行っては、子実体を生ぜしめる茸の如きにである。それはというならば、SBCラジオから、インタビュー出演の依頼が来たのである。
 「飯田ふるさと講談」で以って、飯田弁の漫談をした人がいる――そう聞いてなのか、あるいは南信州新聞を読んでのことであったのか、そうしたことはわからなかった。それはともかくとして、である。SBCラジオに「伊那谷めぐりあい」という番組があって、飯田局がその番組を長らく発信して来ている。その番組を担当している一人であるIA嬢が、インタビューを打診して来たのであった。
 その「伊那谷めぐりあい」という番組は、今でもずっと続いてはいるのだが、週日の午後にわずか数分ばかり放送されているに過ぎない。それでも、飯田放送局から長野県内全域に送り出す番組が、とにもかくにもあるのである。そうしたなかで、私の「飯田ふるさと講談」への出演が、IA嬢の耳目に捉えられたのである。
 「飯田ふるさと講談」に出演して、飯田弁の歴史に繋がる魅力の一端を語ったのであった。それで以ってインタビューを受けたのだったが、それをしも一回で終わってしまうのではなくて、その後もいわば連載の如くに続けることになった。そうとなったら、SBCラジオでも風越亭半生を名乗り続けるのが至当というものだろう。かくて「飯田ふるさと講談」だけで消え去るはずだった風越亭半生の名は、SBCラジオへ出演することでなおも残ることになったのだった。
 しかしてその年の六月を皮切りに、SBCラジオにおける「伊那谷めぐりあい」という番組のなかにあって、毎月一度「飯田弁の秘密」と題してのやりとりが、彼女の担当するそれに登場をすることになった。結果だけを報告するならば、それから十年続けたうえで、そちらは終止符を打つことにしたことだった。
 だが、そのSBCラジオに出ている間に、別なる場所で番組を持つことになった。そのときばかりは、いわば自ら風越亭半生を売り込んで、存続させたのであった。そのことをも記しておこうかと思う。
 私は、高校を卒業後、東京に遊学したのであったが、大学を出てからは墨田区の夜間中学校に勤務することになった。一九七一(昭和六四)年に中国や韓国からの引き揚げ者やその子弟たちのために日本語を教える学級が特設されたのだったが、私はその専任教諭になった。
 その日本語学級の教師をしていた頃のことである。荒川区の夜間中学校の教員だったTY氏は、TBSの名物番組の「全国子ども電話相談室」の回答者をも務めていた。そのTY氏から「番組では回答者の補充を考えているんだが、君がやってみないかね」と誘われたのである。
 「全国子ども電話相談室」なる番組は、私も子どものころに聞いていた番組であった。だが、看板であったMS氏も年齢を重ねて来ていた。そこで、若手を加えて、徐々に変革して行こうということになったらしくて、当時の回答者連に心あたりを探させている――ということであった。
 TY氏は私を推挙してくれようとしたのだったけれど、しかしながら私が回答者に加わることもなくて終わった。その頃の私は、夜間中学校の日本語学級の仕事に忙殺されていた。それが最大の理由ではあったのだけれど、一方ではまたマスメディアに関連した世界にはいささかの興味も無かったからでもあった。
 SBCラジオへの出演を重ねているうちに、かつてのそうしたことが思い出されて来たのである。あの時からラジオの世界に関わっていたならば、今ではそれなりの山坂を登って来ていただろう。イソップ物語のウサギとカメではないけれど、カメの如くにでも歩みを続けて来ていたならば、山頂には遠く届かずとも、今ごろは別なる景観を眺めているやもしれない。そうしたことまでもが思われてきて、そうなると不思議なもので、いま少し積極的にラジオと関わってみたいと思うような気分にもなって来てしまったのである。
 こうして、周りの引き立てで〈這い這い〉をしていた風越亭半生が、自らの意思で歩き始めることになったのである。


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