「とびっくら」に見る流儀(3)

 南信濃では「走る」ことを、ふだん普通には「とぶ」と言っている。それでいながら「走りとおす」ことや「走りぬける」ことは、けっして「とびとおす」とか「とびぬける」などとは言わない。あるいはまた「駆けとおす」や「駆けぬける」だったならば言いもするだろう。そうであってみても、それだからといってふだん普通に「かける」の方を用いて言うものだろうか。私にはそうは思われないのである。
 さらにはまた「梅雨のはしり」だとか「使いっぱしり」などの表現にあっては、それらを「とぶ」だの「かける」だのには言い換えようが無い。それは慣用表現であったり複合語であったりするからだろうと思われるかもしれないが、必ずしもそうした事由の域にだけ留まるものではないのである。
 たとえばのことに、つぎのような三つの文を読み較べてみていただきたい。
* 駅まで迎えに走ってってよ。
* 駅まで迎えにとんでってよ。
* 駅まで迎えに駆けてってよ。
 これら三つを並べてみるならば、おそらくは、読者氏にあっても、それぞれのニュアンスの相違というものが、感得されるものと思う。だが、まだすっきりとはしないかもしれない。さもあればかし、いま少し細かく見てみたい。
 さらに重ねて、である。以下のような文例に対して、それぞれ「とぶ」「かける」「はしる」を用いた場合に、文意が正しく成立するか否かを見てみよう。○は成立し、×は成立しない。また△は成立するとしても、意味合いに微妙なズレや曖昧さがあって、必ずしも適切とは言い切れないだろうと思われるものである。
 まずは、こんな場合である。
 (○)目の前をあっという間に走ってった。
 (○)目の前をあっという間に駆けてった。
 (△)目の前をあっという間にとんでった。
 飯田人にあっても、目の前をすばやく通り過ぎる」といった意味において「とぶ」を用いるとなったら、ツバメやヤンマが飛翔して行ったような場合であり、またそのように解するのが通例ではなかろうか。
 (△)急を聞いて走って来たんだに。
 (△)急を聞いて駆けて来たんだに。
 (○)急を聞いてとんで来たんだに。
 危急に際してとなったら、やはり「とんで来る(行く)」というものだろう。
 (○)後ろの方をてれんこてれんこ走っとる。
 (×)後ろの方をてれんこてれんこ駆けとる。
 (×)後ろの方をてれんこてれんことんどる。
 「てれんこ」は締まりなく走ったり歩いたりする様子をいう飯田弁の副詞で、共通語でいうところの「とろとろ」に置き換えてみてもいいのだが、いずれにせよ「かける」だとか「とぶ」にあっては修飾し得ないことばである。
 少しモダンにしてみようか。
 (○)いつまでもどこまでもリズミカルに走る。
 (△)いつまでもどこまでもリズミカルに駆ける。
 (×)いつまでもどこまでもリズミカルにとぶ。
 「いつでもどこでも」というのならば「駆ける」という表現は妥当ではあっても、例示のように「いつまでもどこまでも」となったら、リズミカルに駆けるのは必ずしも妥当とは思われない。ましてや「とぶ」などとは言い得ない。それではジャンプするばかりだろう。
 こんどは時代劇にでも、タイムスリップしてみよう。
 (×)使者は馬に乗って走って来た。
 (×)使者は馬に乗って駆けて来た。
 (○)使者は馬に乗ってとんで来た。
 急ぎの報せを携えて使者がやって来た――とでもいうような場を想定してみていただきたい。
 「使者は馬に乗って走って来た」とか「使者は馬に乗って駆けて来た」とかいった表現では、走ったり駆けたりしたのは馬でこそあって、使者自身ではない。「使者を乗せた馬が走って来た」とでもいうのでなければ、オカシイ。しかるに「使者は馬に乗ってとんで来た」という表現にあっては、それを「とんで来たのは馬であって使者自身ではない」などといって難を言い立てる飯田人はめったにいるものではあるまい。私としては、そう思っているのであるが、如何。
 こうした細々した用法の差異こそは、「とぶ」「かける」「はしる」という語にあって、動作としては一見していずれも「走る」ことではあろうとも、そうした動作に対しての思い入れのほどには違いがある――ということを明らかにしているものであり、飯田人の流儀を示唆しているのである。


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