風越亭半生と飯田弁(Ⅴ)

   古色蒼然の飯田弁を看板にして……の条
 事は、知友が同期会に予定していた講演者から土壇場でのキャンセルに出遭って、苦し紛れに寄越した私への電話から端を発したことだった。それがきっかけとなって、意想外の形で引き立て引き上げてくれる人たちが連綿として現れることとなった。そうしたことがつづいているうちに、かつて東京で忙殺されていたころに声をかけられたことまでもが、ついつい思い出されるようにまでなっていた。
 当時、私は還暦を迎えていたのだったが、特段の健康不安も無かったから、晩年にさしかかって、余生を思えばのこと、いましばし何か新しいことを試みてみたいと思いながらいた。そうしたなかで、妻や周囲からの勧めもあって、飯田FM放送で以ってラジオ番組を持つことに至ったのである。
 しかるに、縁が縁を繋いでくれての挙句のことであってみれば、風越亭半生を名乗って、しかも「飯田弁」を表看板にした番組を展開してこそ、彼ら彼女らの引き立てに報いる有りようというものだろう。私としてはそのように考えて、飯田FM放送にあって〈風越亭半生の「あのなむし」〉という番組が誕生し、歩み始めることになったのである。
 ここで、少しばかり当時の飯田FM――登記上の正式なそれは飯田エフエム放送株式会社ではあるのだが――のラジオ番組について触れておこう。私が飯田FMで番組を持ってみようと思ったのは、先に述べてきたような私の個人的な経緯ばかりに理由があったわけではなかった。友人たちから「いっぺん聞いてみなよ。アホらしくて聞いておれんに……」などと言われて勧められ?たりしたことがあったからでもあった。その実態を確かめてみようとして、二度三度と暇つぶしに聞いてみたのである。当時のことを今日に至ってあれやこれや言ってみても無意味だからここにはそうした実態は省筆するが、私にしてからが聞いてみようと思うような番組は、正直なところ皆無であった。
 番組担当者は若い人たちばかりで、二十歳前後の人も少なくなかった。TVは欠かさず見ていても、ラジオなどは聞いたことも無かった――というようなスタッフが関わった番組はということになれば、おもむくところ小中学校の放送班が給食時間に流すようなものがラジオ番組の範になっていたとしても無理からぬことだったのである。年配の、ましてやTV無き時代にラジオをこそ日常生活のなかに置いていた人たちにとっては、満足のいくものでなかったのは理の当然ともいうべきことだったのである。
 とにもかくにも、せっかく飯田市にラジオ局があるというのに、市民が幾らも聞いていない、聞きたいと思うような番組が無いというのは、あまりに残念にして惜しいことではないか――と、私は思ったのである。こういうと、読者氏からはいかにも夜郎自大の如きに思われるだろうけれど、私は私で「隗より始めよ」の故事が念頭にあったのである。
 そこで、私が思いつづけて来ていたところのラジオが持っている魅力や、ラジオ番組なればこその価値といったものを再確認してみるつもりで、飯田FMのスタッフ募集に応募したのであった。当時の慣例を破ってほとんど即座に番組を持つことになったのであったが、そうしたこもごももここでは省略する。
 それにつけても、である。まさしく風変わりな存在として、風越亭半生なる者が忽然と現れ出でたかのように捉えられていたことは、番組を持った当初の聴取者(リスナー)の反応や評言に如実であった。他の若いスタッフが取材に赴いた先々で「風越亭半生というのは、どういう人な」「今でもあんな飯田弁で喋っとる人がおるんだなん」などと問い質されることが、ずいぶんとあったそうである。
 リスナーたちのあいだで「風越亭半生っちゅう人は、きっと噺家くずれなんずら」と評定されていた――という話も聞いた。あるいはまた、当時八十二歳にして元気で現役で仕事をしていたリスナーからは「わしよりは少なくても五つ六つ上だ」と思って聞いていた――などと言われたこともあった。それでも、私自身が思っていた以上に、私の番組は速やかに浸透して行き、好ましく迎え入れられたことであった。
 飯田弁そのものとの関わりはとなったら、生れ育った処が飯田の地なのだから、当たりまえのことであるのだが、ずっとずっと昔の子どものころに遡る。思い返してみるにつけても、子どものころから、私はこの地の方言に神経を尖らせていた。そうした実態は、また別の機会に記すこともあろうかと思う。さりながら、世間にあっては、否、私自身のなかにあってさえも、あたかも忽然と現れ出でた風越亭半生なる者は、それからまた、そこに飯田弁とが結びついていることがらにあっては、以上に述べて来たような経緯があってのことだったのである。
 以来、六年間にわたって番組を展開し、二〇一五(平成二七)年に飯田FMでの番組を閉じてラジオからは身を引いたのではあるけれども、その後の今もなお惜しんでくれる人たちがいて、風越亭半生の出番がつづいているのである。

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