風越亭半生と飯田弁(Ⅱ)

   起用に応えて大ホームラン?……の条
 在京同窓会の総会は、その幹事役・運営の世話役を、年番として卒業年度で順送りにしてやって来ている――とのことであった。そうして、講演会もまた、当番にあたった学年から講師を出して、回を重ねてきていたそうだ。
 自分たちの番だとなれば、どの学年にあっても、自らの仲間うちの出世頭と思しき人物を講演者に抜擢しようとなるのは、当然至極な思いであろうし、また実際にもそうした流れが続いてきていたようだ。だから、厚生労働省の高官となって狂牛病対策の陣頭指揮を執ってきた人の話だとか、アフガニスタンのNPO活動に貢献してきた人の話だとか、そういった高邁な講演が、行なわれてきていたというのである。
 当該学年が誇るべき人物となったら、首都圏で活躍している人はどの学年にも少なからずいるから、講師に事欠くことは無かろう。だから毎年いい話をしてくれたのだという。なるほど立派であり、講師のみならず、当該学年の人たちもさぞや鼻が高かったことだろう。
 しかしながら、である。そうした話を聞かされる側に回ってみれば、誰の話も、みんなあまりに良過ぎてしまって「もう結構だ」というのが通例だったようだ。殊に年配の出席者にあっては、どの話にあっても、ほとんど興味を齎さないうえに、講演者がどうだとばかりに気負って話をするからだろう、みんな難しくありすぎて、不評がこのうえない状況にあったらしい。
 「もう講演なんかは、ヤメにしてくれ。早い時間から懇親会にして欲しい。早く帰って寝た方がイイ」という本音の声が、澎湃として沸き起こって来ていた――というのである。
 そんななかで、平成十六年度に、私たちの年度の十九回生が年番になった。在京の十九回生の中心となって動いていたのがSS(故人)であり、サポート役がSAだった。彼らはそうした声を多々聞かされていた。
 だがしかし、自分たちの年番のときに講演会を無くしてしまったのでは、いかにも面目が失われてしまう。後年に復活でもしたら、取り返しがつかない。悩んだ挙句に、在京の身でない私を引っ張り出して、故郷である飯田の方言の話でもさせてみたらどうか――ということになったようだ。
 「立身出世をした者は、我々の学年にだっている。けれども、おもしろい話でなかったら、またもや不評を買うことだろう。彼は立身出世には背を向けて来ているが、話はおもしろい。彼に話をしてもらおうじゃないか」ということにでもなったのだろう。私はおもしろい話が好きだから、そうした類の話を、上京して彼らと会った折節にしてきていたのだったのだけれど、その印象がもたらした帰趨だった。かくて私にお呼びがかかったのである。
 総会当日の宴会の前のプログラムは、私の講演と、中学の同級生だったKYの尺八演奏との、二本立てであった。
 私の講演は「飯田弁の語源を尋ねて……」という演題であった。SSが勝手に掲げたものだったのだが、日ごろの私の話から彼なりに判断したことではあり、また彼が先に立ってしていることであったから、私としてはその演題に沿って話をすることを応諾した。
 しかるに私の講演は、自ら言うのもおこがましいことだけれど、大成功だった。例年は二百人がせいぜいという参加者が、この年は四百人を超えた。演題に惹かれたのだろう――というのが、総括した仲間たちの見解だった。用意の椅子が足りず、慌てて追加出ししてもなお足りず、立ち見ならぬ立ち聞き者が少なからず出てきてしまったのだった。SSならびにSA両君のプロデュースが、まず功を奏した。
 そうして、さらに私の話が進みゆくうちに、私語がぱったりと消えて、皆が聞き入っているさまが、壇上からよく見えた。「なかには涙をぬぐっている人もいたよ」と、これはSAの報告である。遠い子どもの日のころを思い出したのだろうか。それとも祖父母などの姿を想起したのだろうか。何にもせよ「これまでの講演会で、涙を流しながら聞いているような人の姿を見たことなど無い」――との彼の言だった。
 泣かせればよいというものでは、むろんない。しかし、例年の倍にも及んだ聴衆がそれなりに満足してくれたことは、まちがいなく事実だったと、私は回想している。
 数年後に未だ存命中だったSSと会った際に、彼は「いまだにあの時の君の講演が良かったと、語り草になっているよ」と教えてくれた。語り草になっているほどならば、自画自賛しても憚るところはあるまい。
 証はそればかりではない。この時の講演が上首尾だったればこそ、瓢箪から駒が飛び出したかの如き成り行きで、翌年になって「風越亭半生」が誕生することになったのだが、そのいきさつは次回に送ろう。

                   (敬称は略させていただきます)

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