風越亭半生と飯田弁(Ⅲ)

   手土産代わりの方言小話が……の条
 首都圏に出て行った飯田高校の卒業生たちの在京同窓会にあって、総会のセレモニーの一つとして、講演会が行なわれて来ている。二〇〇四(平成十六)年に、当番となった在京の我らの学年(高一九回生)は「講演なんか、もうやめて欲しい」とまでに不評のそれを脱却するべく、世話役の中心にあったSS、SA両君らが相談のうえ、在京者のなかからという慣例を破って、私に講演を依頼して来たのである。
 両君の果断が、上首尾となって結実したことは、前回に記したところである。この年の大成功が、翌年以降に影響を与えたのである。それまでは首都圏在住の者のなかから講師を選んでいたのだが、私の講演を聞いてからは「郷里の者を呼んで話をしてもらう方がいい」ということになったのだそうな。以来、在京の人たちの同窓会に、飯田地方の在住者が出て行っては話をするようになった。先鞭をつけた――という結果になったのである。
 ところで、私の講演が好ましく受け止められた影響は、以後の在京同窓会の講演のありように及ぼしただけではなかった。私個人にもあれこれがあったのである。しかるにここでは、MY氏から声をかけられたことだけを記そう。氏はそれまで全く同窓会に出てきたこともなくていたそうだが、その年初めて出席したということだった。講演の題目に惹かれたのが、その動機だったそうだ。
 私は、講演の冒頭で、ほんの土産代わりの話といった趣でもって、飯田弁でのやりとりのコントを披露したのだった。「はぁるかぶり」だとか「からい」だとか「ねえま」だのといったことばを散りばめて、まるごと飯田弁でしたそのコントを、氏が気に入ってくれたのである。
 MY氏は埼玉県に住んでいながらも、郷里に愛着を寄せていて、当時は毎年六月には飯田でもって「飯田ふるさと講談」(主催・飯田ふるさと講談の会)を開いて来ていた主宰者ともいうべき人物だった。台本作家として、郷土の人物や事件を作品に仕立て、講釈師の神田紅などに読み上げをさせて来ていた存在であった。そのMY氏から、講演が終わってからの懇親会の席で、要請を受けたのである。来年の「ふるさと講談」で、今日のコントのような飯田弁でのやり取りなり漫談なりを、幕間にやってもらえないだろうか――と。
 「時間はせいぜいが二十分足らずのことで、神田紅・神田陽司両師匠が一席ずつやって、後半にまた一席ずつ演じるまで、休んでもらう間の、その時間つぶしの高座だけれど、どうだろうか」という話だった。
 私は演芸が好きで、子どものころからラジオで寄席番組をよく聞いていた。東京に遊学してからは、しばしば都内の寄席を巡り歩いたものである。そんな演芸好きの私に、思いがけなくも「一席やってみてくれないか」という声がかかったのである。
 こういうことになると、ズブの素人ながらもついついおもしろがってしまうのが、私の性癖である。酔狂にも「わかりました。お引き受けしましょう」と、その場でMY氏に返事をしたのであった。かくて翌年の「第5回飯田ふるさと講談」において、私が高座に上がることになったのであった。
 「ふるさと講談」への出演を引き受けはしたものの、それゆえにまた新たな問題が生まれても来た。プロの講釈師のあいだに挟まって、飯田弁で漫談をするにせよ、何をしたものか。それがまさに問題である。
 そればかりではない。前述のように、神田紅・神田陽司が一席ずつやって、後半に再度登場するまでの休憩うちの時間つぶしの高座ではある。さりながら、いかに時間つぶしの素人の高座ではあっても、そうした場にふさわしい何かしらの芸名もあった方がいい。それも考えてみよう、などと。
 その挙句に名乗ることにした芸名が、ほかならぬ「風越亭半生」だったのである。亭号の「風越亭」は、飯田人の愛着する地元の山に由来していることは説明するまでもなかろう。しかし「半生」の方はというならば、少々の説明が要るだろう。芸人の真似事をするそれが、生半可な振る舞いであることは、自身に充分にわかっているからである。そのうえで、好きな噺家だった三遊亭圓生や古今亭志ん朝に脚韻を通わせようと思ったからである。それやこれやを勘案したうえで、名乗ることにしたのが「風越亭半生」の芸名だった。
 しかるに私としては、その時の「ふるさと講談」で使うだけのことと思っていたのだったし、よもや後々にまでかく名乗って使おうなどとは、つゆ思ってもいなかったのである。
 それがそうではないことになった。ただにそこにとどまらなくて、やがてほかならぬ「風越亭半生」が歩き出すようになっていくのである。
 そこにもまたありがたく不思議なつながりがあってのことだったのだけれど、それはまた次回に送る。

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