飯田人にとっての「やっと」(3)

 飯田弁における「やっと」の表現のなかで、私が最も妙味を覚える語の「やんがらやっと」を、一連の最後に掲げよう。
 昭和三六年(西暦一九六一年)の六月末つかたには、飯田地方が集中豪雨に襲われて、甚大な被害を受けた。市内の知人から、その「三六(サンロク)災害」のときの思い出として、およそ以下のような話を聞いたことがあった。
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やんがらやっと〔yangarayatto〕【副詞】《低高高高低高低》
 「今じゃぁ県立の松川高校になっとるけぇど、あすこはもともとは私立で、塚原天龍高校だったら。俺ァはなん、そのできたばっかの翌年に入った二期生だったんな」
 「開校は昭和三四年だったなん。そりゃあ、何もかも新しくて、気持ちよかっつら」
 「いいとこもあったけぇど、まだまだ全部が全部はちゃんとしとらなんだんな。校庭をつくらにゃっちゅって、モッコで石を運び出したり土を入れてなら均したりして、それで体育の単位はOKだなんちゅうようなことをしとったもの……」
 「体育の授業が〈モッコ担ぎ〉かな、ははは。それで、飯田駅から上片桐駅まで、電車で通っとったんずら」
 「そうな。飯田駅からっちゅうと、上片桐までの行き帰りはけっこう乗りでがあって……。通っとるあいだにゃあ、いろんなことがあったなあ……。いちばんは、忘れもせんし忘れもできん、三六災害のときな。あの六月の二七日は、その前からえらい降っちゃぁおったけぇど、朝の行く時は電車が動いとったもんで、学校に行くは行ったんな」
 「今のように、簡単には休みにならなんだでなぁ」
 「そうな。それで、授業が始まっていくらもた経たんうちに、集中豪雨の被害が出て、飯田線がどこかでストップしたとかするとかっちゅうような連絡が、学校に来たらしいんな。それで『電車で通っとる生徒は、もうすぐに帰れ』って言われてなあ」
 「何しに行ったか、わからなんだなあ」
 「何しに行ったかわからなんだどころじゃないもの。せなんだのは授業だけのことな。上片桐の駅で『上片桐には電車は来ません』て言われて、それでも大島の駅からなら動いとるかもしれんちゅうんで、下ってってみりゃぁ、飯田線は疾うにどっこもなんにも動いとらんちゅう話な。そうなっちゃ、家まで歩いて帰るよりしょうないじゃないかな。こっちは飯田の町なかしか知らんまんまに通い始めたんだもんで、松川町や高森の方なんか歩いたことないところずら。駅を目指して歩かにゃ、飯田へ帰る道すじがわからんし……」
 「上片桐駅から飯田駅までは、電車の線路でならざっと二十㎞くらいはあるらが……」
 「それがなあ、線路づたいに行きたくても、とても歩けんのな、あっちでこっちで浸かっとって……」
 「あのころは、今のようなまっすぐな道も無かったしなぁ」
 「それがまた、歩いて帰る途中のあっちでこっちで水は漬いとるし、土砂崩れしとって通れんとこがある、大島川の辺じゃぁ上の方だか下の方だかで鉄砲水が出たの、野底川じゃあ橋が流されたのなんのって聞かされるヮで、家に帰れるんずらかって……」
 「えらいことだったなぁ。それでも帰らにゃならんし……」
 「とにかく歩いた歩いた、二十㎞どころじゃない。倍の余は歩いたら。下って来た道をまた戻ったり、橋が流されて川が渡れんもんで、あっちへこっちへ行ったり来たりしてなぁ。どこの道をどう歩いたのか、まるっきり覚えもないもの」
 「……、そりゃあ、無理もないもの」
 「長靴は履いとったって、靴のなかはびちゃびちゃで、歩きにくいなんちゅうもんじゃないけぇど、何を踏んづけるかわからんもんで、ズッボズッポさせながらなぁ。雨の降りつづいとるなかを、歩きづめに歩いたヮ。どこだか知らんところにおれんもんで、なにがなんでも家まで帰らんことにゃあって思って、帰りたい一心で歩いたんな。いくら日の長い時期だっちゅったって、だんだん暗くなって来るし、腹の空いたのなんのも忘れて歩いたもの。上から下までじょぼくさりなって、やんがらやっと飯田の町に入った時にゃぁ、泣けて来たに。家に着いたのが七時過ぎな。おふくろも心配はしとったんずらが、テレビを見とったもの。その番組で時間がわかったことを、はっきり覚えとるもの。……、あんなに心細いヮ、情けないヮの気分で歩いたことは、後にも先にも無いもの」
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 「やんがらやっと」は、「やっとやっとの思いで」とか「なんとかやっとのことで」といった気分をあらわして用いるところの強調的な表現である。ではあるが、単なる強調表現ではない。後部の「やっと」を「やんがら」の語で強調しながらも、頭韻をそろえてあるところが聞く人にはユーモラスに響いて、必死さを訴えつつそれを客観視させる効果もまたあって、多くの場合におもしろい表現になっている。

 飯田人にとっての「やっと」(3):2020・06・26 掲載

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