マウリシオ・カーゲルの《Acustica》 ディレクターズ・ノート

 マウリシオ・カーゲルの《Acustica》(1968-1970)は典型的な1968年の作品だといえるだろう。例えば同時期、同地域のシュトックハウゼンの《Aus den sieben Tagen》のように、政治の領域における異議申し立ての時代と同期したラディカリズムがここにある。それまでの自分の作品の一側面を極端に蒸留した結果、まったく別のものになってしまったような作品。そして作家はそのあとその蒸留物を希釈して利用する。カーゲルも例外ではない。
 カーゲルの場合、音楽のヨーロッパ的な制度に対する異議申し立てが、その制度そのものを補強し、存続させるきらいがある。それは哲学でいえばアドルノのようにヨーロッパの体制内反体制に典型的なありかただといえよう。カーゲルの《Acustica》と同時期の《国立劇場》や《エキゾチカ》には人々の固定観念を攻撃し解体する働きがあるが、作品が前提とするその固定観念の外側にいる人々とは本質的な関係を持たない。それに対して《Acustica》は楽器と人間との関係とそこから音が生み出されるプロセス、より広い意味では人類にとっての音楽に関わっているためにカーゲルの作品の中でもずば抜けた普遍性も持つ。ここにはユーモアは充溢するが、風刺はさほどでもない。この普遍性は《Acustica》と同時期に作られた《Der Schall》(1968)、《Unter Strom》(1969)にも見られる。

 2018年127ページからなるこの作品では楽譜に記述された自作楽器を演奏者が自ら準備するところから始め、楽譜のガイドに従い練習し、上演では順不同の断片として体に覚え込ませた音楽を演奏者が即興的に組み立てる。すべての断片を演奏する必要はなく、ほとんどの上演では半分も演奏されていないと思うので、2/3以上が準備された今回の日本初演(上演されない大きな部分はトランペット・パートである)は初演を除けば過去最大規模といってよいと思う。

 《Acustica》は狭義の「現代音楽」の外にいる実験音楽家の間でも特別な注目を集めている。それはなによりも自作楽器というアイデアに関わっている。新しい音楽を作るのに新しい楽器を作るのは必然的な態度であり、単なる伝統の更新を超える可能性があるが、といっても電子楽器を除けば本質的に新しい発音原理を考えるのは難しい。《Acustica》では既存楽器の異化、既存の楽器のプリペア=変換と、珍しい楽器、既存の非楽器の楽器としての使用と新しく製作される楽器がグラデーションのように連なっている。1970年代以降に実験音楽家たちによって楽器として発展させられた素材、例えばターンテーブル(Christian Marclay というより、むしろ90年代以降の Martin Tétreault らの音響に重点を置いた探求に近い)、風船(Judy Dunaway、Rciard Arias)、共鳴体による音の変形(Michael Maierhof)、集団のための楽器(Walter Smetak)、フィードバック、そしてセンサー楽器、それらすべての原型が《Acustica》にはある。反面、トランペットとトロンボーンのパートはスピーカー・ミュートとの対話という形で作曲されており、ここだけは慣習的な記譜がそのまま使われる。

 自作楽器の場合面白いのは、その音もさることながら、インターフェスと体との関係である。どのように楽器のインターフェイスを作るかによって、身体技法が再編される。新しい楽器を作りそれを繰り返し練習するうちに体が慣れてくる。本来ヴァイオリンだろうがギターだろうがこのプロセスはあるが、それが歴史を持ち技術が確立されることによって顕在化しなくなる。自作楽器においては楽器と身体の両方が再編される。楽器の技法を固定して考えるのとは本質的にことなった事態がここにはある。練習は作品の前段階ではなく作品そのもののプロセスとなる。そしてこれらの楽器においては必ずしも既存の楽器技術が必要とされず、古典的なヴィルトオージティがあまり反映されない。しかし明らかに別の身体技術、物体との接触から生まれる音をコントロールし構成する技術がここにもある。
 カーゲルの多くの作品がそうであるように、この作品でもシアトリカルな要素が重要である。それ自体が視覚に訴える楽器を扱う所作がほとんど自律した視覚的な表現となっている。この事態をうまく説明するのはおそらくタスクという概念であろう。タスクは演技ではない。タスクは1960年代のジャドソン・ダンス・シアターが主題化した方法論であり、見るものを前提としない行為を見せる。例えば日常の所作、歯を磨くという演技ではなくて歯を磨くという行為そのものがダンスの素材もしくはコンテンツになる。同じように自作楽器から音を出すための行為が独特な身体の視覚的なあり方を作り出すこととなる(ただし実際の所《Acustica》にはいろいろ身体のあり方が混在している)。楽器という物体とそれを扱うふるまいがシアターを作り出すのみならず、演奏行為が作品の枠組みの中でタスクとして視覚的に立ち現れるあり方はカーゲルの創作史においても特異であり、例えば80年代以降のカーゲルの作品にはほとんど見られない傾向である。

 《Acustica》では音響ディレクターが重要な役割を担う。当初はカーゲル自身がいつも担当したこのパートは、パフォーマー間の音のバランスを取るだけでなく、電子音パートを自由に出し入れすることでパフォーマーと同等の重要性を持つ。この電子音パートはWDR電子音楽スタジオで、上演に使われるのと同じ楽器に加えて声と電子変調、電子音響を加えて即興的に作られたものである。独立して上演も可能で、ドローンを基調にした暴力的な音響は1960年代の電子音楽の最高傑作のひとつに位置づけてもよいクオリティを持つ。
 
 今回の上演では、作曲プロセスからカーゲルと協同作業をおこない、初演以来上演の中心メンバーであったヴィルヘルム・ブルック氏を、山田、太田、足立の三人が訪ね、さまざまな助言を得、過去の上演の参照と何よりも楽譜に基づき、このメンバーでいま我々ができるユニークな上演を目指した。われわれにとって実験音楽の源流を辿る得難い体験になったことは間違いがない。願わくば聴衆にとっても有意義な体験であらんことを。



アクースティカ 実験的音響生成装置とスピーカーのための 1968-70
2-5人のパフォーマーと音響ディレクターによる

足立智美 (ディレクター、パフォーマー)
有馬純寿 (音響ディレクター)
太田真紀 (パフォーマー)
松平敬 (パフォーマー)
山田岳 (パフォーマー)
村田厚生 (パフォーマー)

2018年3月6日 日本初演


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