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猫山課長の真髄はnoteにある『銀行マンの凄すぎる掟』はカノン進行なのだ

カノン進行とは、ヨハン・パッヘルベルの『カノン』で使用されている非常に美しいコード進行。J-POPでもPretenderやマリーゴールド、チェリーなど多くの楽曲に使用されている。

(あだち調べ)

幸せの青い猫、猫山課長との初めての出会いは2023年の4月。
教え子のうたのんと共に向かった、その先SUNABACO江別主催のイベントの場だった。

考えてみれば、わずか6ヶ月足らずの付き合いだが、何度か顔を合わせている。猫山課長の住む現地に行ってアテンドまでしてもらった。
そう思うと、もう友人と言って何ら遜色のない関係だと僕自身は思っている。相手が思っているかは関係ないのだ、人は各々の価値観で生きていくものだから。

そんな話を前置きに猫山課長が出版された『銀行マンの凄すぎる掟』について話したい。

『銀行マンの凄すぎる掟』はカノン進行なのだ

この記事の読み手はおそらくこうだろう。
・猫山課長のnoteを普段から読んでいる方々
・SUNABACOで知った人たち
だから敢えてここで「猫山課長とは」を語ることはしない。僕のように半年前まで知らなかったような人間が、幸せの青い猫についての初期情報に触れるのは野暮というものだろう。

早速、猫山課長の著書である『銀行マンの凄すぎる掟』について話したい。
内容に触れる前に一つ言いたいのは、これはカノン進行なのだということ。

書籍を読まれた方は当然ながら普段とは少し変化した文体に気付いたと思う。これはあくまでも大衆に向けて大きく売り出していくものであり、そこに強度のある文章の音調を持ってくるのは好ましくないのだ。

言うまでもなく猫山課長の文章の真髄はnoteにある。

もし「私は書籍から知りました」という方がいるのであれば、是非ともnoteの中にある記事を幾つか読んでみて欲しい。
文章の発している音調が初見の大衆向けではないことに気付かれるのではないだろうか。

なぜなら猫山課長は対象者を絞っているからだ。中年のサラリーマンで、日々の仕事の中に鬱積したものを抱える人に向けて文章を書かれている。しかも長文に耐え得るだけの読解力を持つ層と限定しており、該当しない人には読み切るのが難しい内容になっている。
ターゲットを特定することで結果的に多くの人に刺さるものとなったのだ。これを狙ってやっているというのだから、もはや凡人を超えた才能であるのは言うまでもない。そして先のカノンの話に合わせるなら、この猫山noteはノン・ダイアトニックコードと言える。

要するに全音階と呼ばれる"ドレミファソラシ"などの聞き馴染みのものからは逸脱した"異物の音調"を敢えて創出している。

対して『銀行マンの凄すぎる掟』はどうなのか。
これは誰もが読みやすい形にリライトされており、中身の理解が容易で入りやすい。要するにカノン進行なのだ。

僕はここで良し悪しの話をしているのではない。
一人の人間が響かせることの出来る作品に限界はないのだという事を知って欲しかったのだ。おそらく猫山課長本人が一番それを痛感していることだと思う。

あなたの中にも必ずカノンがあればノンダイアトニックコードがあるのだ。常識人の自分、異端児としての自分、臆病な自分、狂人の自分、・・・。
その全てにおいて響かせられる音が違う。そしてその音に共鳴する人も異なってくる。

猫山課長は著書の中で語っていた。
"自由獲得のためのプレイヤー"
自分という存在の枠組みを固定してしまうことで奪われていく自由の本質。どうすれば自由を獲得できるのかと同時に"あなたの自由とは何か"を深く考察しておくことで、猫山課長の言っていたことの意味が強まるのではないか。

娘にしたように孫の背中を押せない

娘にしたように、孫の背中を強く押すことができないのです。

銀行マンの凄すぎる掟 ・決断力のない上司

上司が部下のリスクを背負えないと感じてしまう時の例として出されていた。
この描写がとても好きだ。

内容は読んで貰えば分かるが、例題として非常に分かりやすく猫山課長の文章の良さが出ている。

文章は伝わって初めて意味を持つ。そして具体例は読者に書かれている内容の核心をより深く伝えるために心血を注ぐ部分でもある。

そこでふと疑問に感じて欲しい。
「は? さっきまでの文章の例え、分からんかったぞ」と。

前章で敢えてカノンやノン・ダイアトニックコードなどを出した理由はここにある。分かりにくいと感じる例ではなかっただろうか。僕は中学校時代に吹奏楽部に所属していたので少しは分かるが、おそらくギターか何かやっていないと「何言ってるの?」となっただろうと予想する。

猫山課長の『銀行マンの凄すぎる掟』には、そういった部分がほぼ無い。全ての例題が対象とするであろうアラサーからアラフィフあたりまでのサラリーマンに通じるものになっている。

その証拠に「サラサラと読めてしまった」という印象を持つ人が多いのではないか。これもまた前述の猫山noteとの違いになっている。
猫山noteはスルメのように味わうものであり、サラサラ読んでも内容の中核は押さえきれない。大枠は分かっても猫山課長が真に伝えたかった事からはハズレている可能性もあるだろう。

猫山noteは読み込みが必要なものであり、今回の著書との差は歴然。

何度も言うが、これは良し悪しの話ではない。文章の一つ一つがどの様に構成されていて、どんな思いが紡がれているのかを想像することに面白味があると伝えたいのだ。そしてそこに必ず学びがある。

ちなみにこんな読み方を全ての本では出来ない。
これは友人が出した本であり、尚且つ普段から血を注いだ文章の結晶であるnoteという作品があるからこそ出来ることなのだ。だから皆様も猫山課長に会ったことがある人なら是非とも「普段との差」を感じ取りながら読んで欲しい。

「猫山課長の本だ~」
「サイン貰わなきゃ~」

それも良いと思う。でもせっかくなら普段味わえないような書き手を感じながら、どう作られたのかにも想像を滾らせて見てはどうだろうか。

学びの最中に、その価値は分からない

学びというのは、「学びの最中にあるときはその価値がわからない」という際立った特徴があります。

銀行マンの凄すぎる掟 ・勉強とは消費ではなく投資

まさにその通りの一言ながら気付いている人は少ない。勉強という投資が人生に反映されるのは終えた後、つまり価値体験をするのは事後なのだ。

本編では内田樹先生の下流志向の受け売りだと記されていた。

勉強を消費と捉えると「リソース(自己資源)を使って、なぜ辛い思いをしなければならないのか」と嘆くことになる。実はこんな人はごまんといる。だからそうなってはいけない。投資として捉える事が・・・。

と僕が綴っても意味がない。そもそも上記は全て本の中に書かれていることで、敢えて僕がここで伝える必要もないのだ。
ではなぜ取り上げたのか。
それについては第ゼロ感とでも言っておきたい。
要するにSwish da 着火 youです。いや意味わからん。

Swish da 着火 youとは映画『THE FIRST SLAM DUNK』の主題歌である第ゼロ感の歌詞で3ポイントシュートがシュパッと綺麗に入ることで三井の心に着火するように見えるとリョータが感じている部分を示している。ちなみに三井は原作で8回3ポイントを決めているから第ゼロ感でのSwish da 着火 youも8回ある。すごくね?

THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE・あだち調べ

『銀行マンの凄すぎる掟』を読み進めていて何度となく頭の中に過ぎった言葉がないか思い出して欲しい。
「うんうん」
「そうだよ」
「まさに」
完全同意に近い感覚。
「私もそう思っていた」
「俺も同じこと考えてた」
実はこれが"Swish da 着火 you"だと言いたかった。シュパっと綺麗に入るゴールで自分にもあった気付きが浮上して心が燃えはしなかったか。
つまりは「そう、それー!」というやつである。

実は、猫山課長の作品は2つの特徴を持っている。それは「痛みを伴う気付き」と「気付きの言語化」である。noteでは、痛烈な気付きが鋭く描写されているのに対し、書籍では、多くの人が感じていることを丁寧に言葉にしてくれている。

『銀行マンの凄すぎる掟』は、noteのような痛みを通じた学びよりも、「内面の気付きを言語化する」形で書かれている。この言語化により、自分の思考を再確認し整理することが可能となる。

一方、noteでは、時としてその言葉により心が刺されることもあるが、それによって「自分の中に眠っていた気付き」を掘り起こし、行動の糧として提供してくれる。

この視点で読めば、書籍とnoteの差異をより明瞭な違いを感じて愉しめるのではないか推察する。既に一度読んでいる方には、再度noteと並べて読むことをおすすめする。そうすると僕の伝えたいことが分かるのではないか。

書き手の意図や狙いを背景に持ちながら読むことで、さらなる学びが得られるだろう。今はその意義が感じられなくとも、後になって「あの時の学びが大切だった」と実感する瞬間が訪れるかもしれない。そうまさに「学びの最中にあるときはその価値がわからない」のだ。

猫山課長はもう半径5メートルではないけども

「これが書籍のレビューですか?」
違う。ちゃんとタイトルを見て欲しい。

猫山課長の真髄はnoteにある『銀行マンの凄すぎる掟』はカノン進行なのだ

どこにもレビューや感想とは書いていない。真髄はnoteにあり、書籍はカノンなのだと僕の私見を述べているだけなのだから悪くないだろう。
ここまで読んで「内容についての考察が読める」と思った方は、もしかしたら損をしたと思っているかもしれない。それは申し訳ないが知ったことではない(僕はそういうカスみたいな自分勝手人間でもあるのだ)。

さて、猫山課長は常々言う。
「自分の半径5メートルを変える」

言い方を変えれば、自分が影響を及ぼせる範囲、守れる範囲になる。
どちらにせよ、すでに皆様も知る通り猫山課長はその域を超えた。意味を持ちながら継続した一つの行動は、E=mc²の公式さながらの加速度に影響を受ける波及を見せたのだ。やめられない、とまらない、のアレである。
きっと猫山課長のnote、そして今回の書籍を読んで自分を変化させた人が多くいるはずだ。

猫山課長は半径5メートルどころか、数百キロを超える範囲を変えたのだ。

すごい。凄すぎる。幸せを呼ぶ青い猫だかハンカチだか、とにかく猫山課長は大気圏を抜けた。

という前置きを伝えた上で本題である。

「じゃあ、あなたは?」

これが無ければ書籍を読んだ意味がないだろう。猫山課長はあなたにハッキリと問うたのだ。

「あなたは自分の半径5メートルを変えられるのか?」と。

この問いに真摯に向き合い、自らの答えを見つけてほしい。考えること、それが全ての始まりなのだから。

猫山課長はこうも言っていた気がする。
「俺は数百キロ変えたけど、お前には出来るのか?」
「凡夫でもやれる方法は伝えてるんだから、それくらいやれよ」

いや猫山課長は知っての通り、顔も性格もスタイルも良い知的な男性なので、さすがにここまでは思っていなくても、こう伝えているのは事実だろう。
そう・・・。

「あなたにも変えられる」

あなたという自由獲得ゲームのキャラクターをどう動かすのか。その一例を余すことなく見せてくれている猫山課長。
彼を応援すると共に"あなた自身"というキャラクターを"あなた"がどう動かすのか。それを考え抜いて欲しい。

パルプ・フィクションの『ファック』と同じくらい『クソ』が出てくる日本初の書籍

映画パルプ・フィクションを知っているだろうか。
クエンティン・タランティーノ監督の名作であり、時系列崩壊系の先駆けと呼べる映画である。

この映画の中では登場人物が死ぬほど『FUCK』を連発する。それこそ登場人物全員が言っているのではないかと思うほど。回数を数えた酔狂な人がいるらしく、どうやら作中で250回使用されているそうだ。

同じ様に『銀行マンの凄すぎる掟』にも『クソ』なる文言が山のように出てくる。それこそタイトルの副題にも入り込むほどである。さすがのタランティーノ監督もパルプ・フィクション~ファッキンな一日~なんてタイトルにはしていない。あのぶっ飛んだ監督ですら名付けなかったのに、猫山課長は容赦なくサブタイトルに放り込んだ。さすがの一言である。

数えた訳ではないが、おそらく日本で唯一「クソ」がパルプ・フィクションの「ファック」ばりに登場する書籍であるということも合わせて紹介しておきたい。

※それでも少し大衆用の書籍ということで、クソという表現も軽減させたのではないかとも思うから恐ろしい。

なんだろう、締めとしては毒にも薬にもならない章で終わったが、それもまた僕という人間の汚れっぷりによるものである。
でも猫山課長のことは本当に応援している。

幸せの青い猫、きっと皆様の足元に、それはいるんじゃないのかな。後はその足を少し前に動かすだけですよ。

ここまで読んでくれた皆さんには「ありがとう」と言いたい。ついでに右下のハートマークのスキを押してみて欲しい。なぜかクズ過ぎて好かれない僕のために。

「え? まだ本を買ってない? 買えかえ~!!」

PS.猫山課長おめでとう

先日はありがとうございました。とても美味しいお肉に翌日までアテンド頂き嬉しい限りでした。またそちらに伺わせて頂きます。
猫山課長の持つ才能、そして人柄、今後も大きな飛躍をする人だと感じています。幾度と会う機会があると思いますが、お互い中年男、健康には気遣いながら共に成長していきましょう。
初出版、おめでとうございます!


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