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FACT FULNESS 〜10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣〜

ベストセラーに飛びついて書評のようなものを書くのは気恥ずかしいし難しいのだけれども、この本にはかなり感銘を受けたので少し長くなりそうだけど書いてみる。この本が世界を変えるかどうかは知らないけれど、あくまで僕という個人の中での変化の話だ。

僕に関して言えば、2011年3月11日以降、Twitterに代表されるSNSとの付き合い方がすっかり変わってしまった。それ以前はどんな使い方をしていたかすら思い出せないが、たぶんのんびりしたものだったと思う。糸井重里氏の飼い犬のエピソードとかスカスカのおせちとか。震災が起き、家族の安否確認や状況把握にははTwitterがいちばん役立ったし、震災直後は被災地支援チーム運営にずいぶん役立っていた。みんな被災地のために祈ったり励ましたり、前向きに大災害に立ち向かおうという雰囲気があった。

しかし福島第一原子力発電所の事故が明らかになり、その被害の大きさや原子力発電の賛否についての議論が始まると状況は変わってしまった。僕自身はもともと原子力発電は事故が起きた時の被害が大きすぎることと、メンテナンスの難しさ(定期点検時の労働者被曝の問題など)、被曝のデータの不透明さなどから否定的な考えを持っていたので、その立場からSNSで起きた原発をめぐる議論に参加していくことになる。

そこで起きたのはそれまで見たことのない分断だった。原発推進派と脱原発派に二極分化された両者の応酬は次第に議論から憎悪やお互いへの嘲笑といったとても気分の悪いものになっていった。議論というのは本来ゼロサムゲームではなく、「そこはそうだよね」「でもここはこうなんじゃないか?」「ああ、それならこうしたらいいんじゃない?」といった擦り合わせだったり、時には「あっ...なるほど。うーん、僕は間違っていたかもしれない...」という気づきだったりするものだと思うのだけれど、ここでは相手の立場を否定する言葉の応酬ばかりで、議論が成立しなくなった。そこで大切なのは、本来は客観的なデータだったはずなんだけど、どちらも自説に都合のよいデータを出してくるように思えた。それらのデータを読み込んで正否を判断するだけの専門的な知識もないし、調べれば調べるほどデータというものがわからなくなった。そうして僕はデータを評価基準にするのを諦めてしまった。それよりも自分の直感とか、「腹に落ちる」話をしてくれる人を信じるようになった。「腹に落ちる」というのはすごく曖昧で抽象的だが、英語でも“Gut Feeling”(直感)という言葉があるように、人間は脳(論理)だけではなく体感的に正しいことを感じる神経経路があるように思う。それで僕は「原発と、それを推進する企業や政府や地方自治体には胡散臭さを感じる」という感覚を信じてきたのだった。データから目を背けて、哲学とか思想とか、言葉を手掛かりにして考える習慣がついたこの数年間だった。

しかし、それで自分の考えが人に影響を与えたかというとまったくそんなことはなく、相変わらず「原発がないと資源のない日本はやっていけない」「原発を否定するってことは江戸時代に戻れということか?」という意見の人たちとは歩み寄れる気配すらない。もちろん同じ意見の人とたちとの共感は深まるのだが、最も大切な原発推進派(というか必要悪だったり他の発電方法と実害において大差ないという意見だったり)の人たちの考えを変えることができなかった。つまり客観的なデータを伴わない議論では、相手を説得することは難しいということだ。

そこでこの本を読んだのだが、最初の50ページほどで自分がいかにものを知らずに考えたり語ったりしてきたのかがわかった。表紙裏にある「世界保健チャート」は、縦軸に平均寿命、横軸に一人当たりGDPをとり、そこに各国の人口を大きさで示した円を配した「バブルチャート」である。想像通り日本や欧米諸国は右上に集中している。日本よりも所得が高い国は20カ国ほどあり、5カ国ほどは産油国。意外なのはアイルランド、アイスランド、デンマーク、ベルギー、オーストリアなど。そして日本に近いのがイスラエル、イギリス、フランス、マルタ、フィンランド、韓国、スペイン、イタリアあたり。ここだけでもけっこうな驚きだったのだが、これは全て「所得レベル4」のカテゴリーに入る。このチャートでは所得によってレベル1から4まで分けているが、このレベル1から3の違いを意識したことがなかった。「発展途上国」と「先進国」という2つに世界を分けていた。レベル1はソマリア、コンゴ共和国、エチオピア、ウガンダ、北朝鮮、ネパールなど。1日の収入は1ドルから2 ドルだ。家にひとつだけあるポリバケツをかかえて裸足で何キロも先の水場まで不衛生な水を汲みに行く。これが僕がイメージする「発展途上国」だ。子供の頃から何度もテレビのドキュメンタリー番組やユネスコのCMなどでおなじみの光景だ。この人たちは世界に10億人いる。レベル2になるとインド、バングラディシュ、ナイジェリア、カメルーンなどで、1日2ドルから8ドルになる。サンダルや自転車を手に入れ、調理も焚き火からストーブになった。子供たちはなんとか学校に行って教育を受けることができる。これが30億人。レベル3はインドネシア、中国、エジプト、イラン、イラク、南アフリカ、タイ、メキシコなど。収入は1日8から32ドル。水道があり水汲みに行く必要がなくなった。バイクや冷蔵庫、テレビなども手に入る。国によっては富裕層は先進国と変わらないか、それ以上の暮らしをしている。20億人。そして私たちが暮らす「先進国」はギリシア、トルコ、ロシアあたりを下限に日本、アメリカをはじめとする欧米諸国、中東の産油国、シンガポールなどの金融1日32ドル以上の収入があり、自動車や家電を持ち、水道からはお湯が出る。これがおよそ10億人。

世界は「先進国」と「発展途上国」に大きく分断されている、と思っていたが、実際には近年なだらかなグラデーションを描くようになり、そこに「分断」は消えつつある。もちろん貧困がなくなったわけではない。ただ今までイメージしていた「貧困」にも幅があり、レベル1と2とでは、先進国に生まれ育った僕たちには見えにくいが確かに違いがある。そしてこの数十年で多くの国がレベル1から2へと、また2から3へと移行している。つまり世界はゆっくりではあるし、まだまだ解決すべき問題はたくさんあるけれど、以前より良くなっていると言えることがデータから読み取れる。

もう少し具体的な例を上げる。

ここでは平均寿命とGDPではなく乳児生存率と女性一人当たりの子供の数によって「先進国」と「途上国」を定義した。

質問1 現在、低所得国に暮らす女子の何割が初等教育を終了するか?

A 20%  B 40%  C 60% (答えはC)

意外だった。

質問2 世界で最も多くの人が住んでいるのはどこ?

A 低所得国  B 中所得国 C 高所得国 (答えはB)

なんと現在では低所得国に暮らす人の割合は全人口の9%だ。(!)

著者お得意のバブルチャートを見ると、1965年(僕が生まれるちょっと前だ)のそれは、確かに「先進国」と「途上国」の間に大きな空間があった。世界は「分断」していたと言えるだろう。しかし2017年のそれではほとんどの国が「先進国」の範疇に入っている。分断は解消したといえるだろう。このように時代は変化していることを念頭に置いて判断を下すべきだという著者の主張には説得力がある。僕はテレビだけでなくインターネットや読書から多くの知識を得ていたと思い込んでいたが、こんな簡単な、その気になれば誰にでも手に入るデータに気づかずに40年も前の子供の頃に植え付けられたイメージだけで世界を捉えていたことを知った。(ちなみに世界各国で行われた調査でもこの質問に正解したのは30%以下。3択なので著者の言葉では“チンパンジー以下”という正解率だ)これは衝撃だった。

このような思い込みを乗り越える方法を本書は教えている。

まず人間には「思い込み」の本能があることを理解する必要がある。この本能は遥か昔、森から草原に出てきたか弱い裸のサルにすぎなかった人類が生き延びるために必要だった本能が今も根強く残っているものだという。

「分断」「ネガティブ」「直線」「恐怖」「過大視」「パターン化」「宿命」「単純化」「犯人探し」「焦り」という10の本能について知ることが大切で、人間の思考には必ずこういった本能によるバイアスがかかっていると自覚したほうがいい。それぞれの章を読むとことごとく思い当たるフシがある。実にためになる。

ただデータの読み方以前にデータの抽出の仕方には注意が必要だ。先の原発問題の例でもそうだが、恣意的に抽出されたデータからは正しい判断ができない。このあたり、すごく気になる件があるので触れてみる。

早野龍五東大名誉教授の被災地住民の被曝調査にデータ誤認(捏造?)や住民の同意を得ないデータ収集などの問題があったという事件だ。

糸井重里氏の「ほぼ日」のサイエンスフェローも務める早野氏の活動は震災直後から注目していた。ベビースキャンの開発により乳幼児用の内部被ばく検査を可能にした彼は信頼の置ける人のように思えた。また糸井氏との対談『知ろうとすること。』でもその人柄や、努めて客観的であろうとする態度が読み取れた。その後早野氏も糸井氏も福島の復興を助ける方向で「放射線による被ばく被害は無視できるレベルのものである」というような発信をしていた。早野氏はその風貌からも文章からも「いい人」っぽさを感じられて、真摯に取り組んでいるように思えた。

これについては本書の考え方に非常に近い。「放射線による被害は有意には見られない=直接被ばくによって死に至った人はいない」とデータから読み取れる。そうかもしれない。でも僕がこの件に関しては同意できないのは国や関連企業がこれまでに原発に関する情報を隠蔽したり改竄したりしてきたからで「だから彼らが隠したいことがあるのだろう」という不信感を拭えないからなのだ。

そんな中、データ誤認の問題が起きた。市民の被曝線量を3分の1に少なく見積もっていたことが発覚し、「信頼できそうな人」だった早野氏は論文を取り下げた。高エネルギー加速器研究機構(KEK)の黒川真一名誉教授からのレターには答えていない。糸井氏も沈黙している。それはなぜなのか。

本著のデータは基本的に「誰でもアクセスできる、比較的公正と思われる機関のデータ」である。世界銀行とかユニセフとか。異論はあるかもしれないが、かなりましな方だろう。出典はインターネットで誰でも見ることができる。これが大事なことだ。例えば原発を推進する立場の省庁や企業が持っているデータの公平性を検証するのは難しい。それがニュートラルだと信じることはあまりに純粋すぎるだろう。同様に反対する立場の団体が持っているデータを信じろというのも難しい。どちらも同じように検証が難しいのだ。

その点学会に発表した論文というのは複数の専門家による査読を受けているので信頼性が高い。(もちろんその学会がニュートラルであることが前提だが)その論文を撤回した早野氏はやはり信用を失ったと思う。

本書ではデータを読むときの態度にも触れている。

大災害が起きて子供を失い悲嘆にくれる母親に対して「データでは災害による死者はこの100年で半分以下に減っているんですよ」などという言葉はたとえそれが事実であってもなんの慰めにもならない。絶対に言うべきではない。その通りだ。原発事故で住む場所や田畑を奪われた人たちに「データによると人体への影響は気にするほどではない」と言うのはそれに近いように思う。

本書はものを考える上での偏見を取り除くのにとても役に立ちそうだが、この件は引っかかっている。データだけでは納得できないこともあるということだ。

長くなった上にまとまりがない文章になってしまった。またそのうち纒めなおすかもしれない。


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