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L=S『悲しき熱帯』第6,7,9部概略とコメント


 授業用に作成した、懐かしい自作の資料(2023.11.10)を見つけたので、ここに公開します。


文献概略

 第六部、第七部で語られたボロロ族、ナンビクワラ族の文化は、対照的なものとして読まれるべきものである。いわば、高度で精緻な社会構造とそれに対応した形象表現の体系を作り上げたボロロ族と、素朴にありのままの暮らしを維持し続けているナンビクワラ族、というふうに。素描を以下にまとめる。
 「自らの伝統に忠実な」ボロロ族のケジャラの村では、河畔の林間地に、十の氏族から成る約百五十人の人々が住む合計二十六の家屋が、中央の大きな「男の家」を中心に、直径約百メートルのほぼ円環をなして配置されている。人々は、母系の系譜によって母と同じ氏族に属し、男たちは成人するとまず「男の家」に移り、さらに「優先的結合」と呼ばれる規則によって、反対側の胞族の女性と結婚し、妻の家に移り住むこととなる。実際には、各々の氏族はまた上中下の三つの集団に分かれており、それによって、一方の半族の上の組に属する或る人は他の半族の上の組の人を、中の人は中の人を、下の人は下の人を、それぞれ配偶者としなければならず、ボロロ族の村は結局、分析してゆけば三つの、互いにその中だけで結婚し合う組になってしまうのである。
 一方、ナンビクワラ族の記述においては、十月から三月までの雨季の村での生活とそれ以外の時期の食糧を求めての遊動生活、言語の特徴、物的な装備の簡素さ、身長が低く、全員の血液型がO型であることなどがまずあげられることになる。その後に、ナンビクワラ族の生活にとって重要かと思われる徴候が大きく三つ程描かれることになる。まず、ある群れの首長が贈り物を配る際に、(無意味な?)文字の解読作業を大仰に行うことによって、自らの権威を示そうとした出来事について。ここでレヴィ=ストロースは、文字は権力を保証する装置として誕生したのではないかという考察をしている。次に、二つの群れの接触の際に一種の黙劇として行われる、緊張感を伴った交易について。その場限りの交換に満足がいかなかったことへの報復の感情から、戦争が始まったのではないかとの考察がある。最後に、つい最近まで疎遠だった二つの群れが、生存戦略として、対をなし一つの集団になろうとしている現場に遭遇したことについて。いとこ婚という戦略への彼の関心の誕生が垣間見える一節となっている。
 第九章では、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」というあの高名な一節とともに、「悲しき熱帯」をめぐって、様々な考察が為されている。「神にされたアウグストゥス」という戯曲を書いてみたというエッセイ風の話や、「東洋の西洋」としてのイスラム教社会への考察などが含まれている。

コメント

 ナンビクワラ族におけるいとこ婚の戦略において、後期のレヴィ=ストロースが思想的に離れていったとされる「縦」の構造についての描写が見られることについて、気になりました。具体的には、首長は「上手に歌ったり踊ったりできる陽気な男」として、「気前のよさ」のみで不断に人をとどめておかねばならない存在である一方、唯一重婚が認められている者であるという事態について、L=Sは、集団の成員が一夫一婦制によって保証されていること、つまり「安全の個人的な要素」を、首長から期待される「集団的な安全」と交換することの現れであると理解していますが、ここで第九章末尾に置かれた次の一節を踏まえると、面白く読み直せそうだと感じたということです。

 人間は、呼吸し、食物を獲得するようになってから、火の発見を経て原子力や熱核反応機関を発明するまで、人間を再生産する場合を除いて、喜々として無数の構造を分解し、もはや統合の可能性の失せた状態にまで還元してしまう以外、何もしなかった。

中公クラシックス版 p.429(強調引用者)

 全く固定的というよりは、むしろ流動的なレヴィ=ストロースの「構造」概念は、このようなナンビクワラの「首長権の原初形態」という特殊な縦の権力の経験なしには、成立し得なかったのではないかと思いました。またそれは「人間の再生産」ということを彼が自明視しているということでもあると思いました(共感はしますが)。

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