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物語食卓の風景・昭和家族の妻④

 昭和に子育てをした立花洋子さんの物語の前回は、洋子が娘たちのことを思い出しながら、駅から家までの半分を歩いたところまででした。

 洋子には、2人の娘がいる。洋子さんが暮らす大阪のベッドタウンの町から離れ、東京で共働き夫婦2人の娘、真友子と、車で30分ほどの距離に住む、子育て中の専業主婦の香奈子。真友子は47歳、香奈子は38歳です。洋子は70歳だ。一家は昔、商店街の外れにあるマンションで暮らしていたが、香奈子が生まれる直前に、夫の秀平の父が亡くなり、姑が暮らすあと10分ほど歩いた先の一戸建てに引っ越した。姑はそれから数年ほどで亡くなった。元気に暮らしていたのに、ある日趣味仲間との約束で出かけようとした朝、玄関で倒れてそのまま亡くなってしまった。おかげで、秀平の父の病院に通った以外に介護というものを経験してない洋子だった。今は、その夫の実家だった家に夫婦2人で暮らしている。

 前に住んでいたマンションがあったのは、ここだったかしら。あの震災のとき、この辺りまでは本当にたくさんの建物が壊れて、街並みも変わってしまった。もしあのままマンションで暮らし続けていたら、私たちも大変だったかもしれない。いや、もしかすると誰か亡くなっていたかも。今建っている新しいマンションは、きれいなクリーム色で、前のくすんだ茶色とは大違い。窓も大きくなって、戸数も減ったみたい。あの頃は、前のガレージに子供が駆け回っていて、私も同じマンションの奥さんたちとよくおしゃべりしたものだったわ。みなさん、その後どうされたのかしら。

 洋子はマンションの前で、しばらくたたずむ。震災から8年後、新しくなったマンションは前より一戸あたりの面積が広くなり、戸数がへった。

 洋子はもともと人づき合いが得意なほうではなく、マンション時代のご近所の人たちとも、香奈子が生まれて生活に追われている間に疎遠になった人も多い。あの当時は、3DKの部屋が多く、子どもが大きくなると引っ越していった人たちもいて、震災でマンションの2階がつぶれたとき、洋子の知り合いはもうその中には1人もいなかった。だから、どういう経緯で新しいマンションが建ち、前の住人が再入居したのかどうか知らないのだ。もし、優先的に住めたとしても8年も経っていたら、きっと新しい生活ができてしまっていただろうから、再入居した人は少なかったのではないか、と洋子は思っていた。

 商店街がアーケード再建をしないと、最終的に決めたのもその頃で、仮設の店舗はなくなって、住宅に挟まれつつ店舗がポツポツと並ぶ、現在の形になった。でも、アーケードがなくなったことで、商店街としてのまとまりが少なくなったように、洋子には感じられた。駅前のスーパーで買いものを済ませるようになってから長い洋子には、ついに商店街と縁が切れたのもその頃だったと感じられている。

 商店街の周辺にあったマンションが少なくなり、一戸建てが目立つようになって数分ほど歩いた先に、洋子の家はある。震災で大きな被害は受けなかったものの、壁の一部がはがれ、2階の一角に雨漏りがするようになった。戦前に建った家で冬寒いのも気になっていたので、思い切って建て替えたのも、やはり震災から8年後だった。そのとき、古くから植わっている常緑樹中心の庭木も入れ替えたかったが、予算が取れなかったのと、夫が「この庭の風景の思い出ぐらい残してほしい」とかたくなだったので、日本家屋に似合う昔ながらの庭だけは残っている。ターシャ・デューダ―の番組が好きで、イングリッシュガーデンに憧れていた洋子の夢は叶わなかった。


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