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本当に「行き詰る」ときこそ、別の見方が開かれるとき


別の道があるはず ~There must be another way.

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の霊性の道を歩んでいく上で知っておいたほうがいいのは、そのプロセスにおいて誰もが必ずと言っていほど、ある時点で「行き詰る」ことになるということです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)学習の道を真摯に歩んでいくならば、それは必ず誰もが経験するものであります。

「行き詰る」とは、コースを学んでいくことがつらくなったり、苦しくなったり、嫌になったりするということです。

むしろ、「行き詰る」ことがないならば、コースの学びが進んでいるとはけっして言えないといえます。

なぜなら、「行き詰る」ときこそ、本当の意味で学びが進んでいるということでもあるからです。

というのも、「行き詰る」ことがないならば、私たちは真剣に自分の考えを疑う、もしくは、やめるということはけっしてないからです。

だとしたなら、自分の考え(考え方/思考体系)は何も変わらないままということになってしまうわけです。

そうであるならば、コースが教えていることとはちがった実践のやり方をしているということになります。

コースの学びが進んでいくプロセスにおいて行き詰ったときこそが、さらに学びを深めていくそのターニングポイント(転機)なのだということを知っておくと良いでしょう。

ようするに、「行き詰る」ということはどういうことなのか?というなら、

つまりは、コースの道を歩んでいくことに対しての「自我の抵抗」というものが顕わになったということです。

それによって、自我と同一化している自分を自覚するようになるということです。

言い換えるなら、本当に「行き詰る」とき、そのときこそが私たちはこれまでとはまったく別の見方が開かれるとき(機会)なわけです。

「別の見方がある」というその考え方は、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解していく上での極めて重要な概念だといえます。

『A Course in Miracles』(奇跡のコース/奇跡講座)がヘレン・シャックマンとビル・テッドフォーによって口述されるそのきっかけとなったのが、まさにその状況だったというのは有名な話です。

彼らは本当に行き詰ったとき、

別の道があるはず。"there must be another way"

という考えをようやく招き入れたのです。

そして、『A Course in Miracles』(奇跡のコース/奇跡講座)の口述ははじまったのです。

そのようなコースの起源、由来を知っておくことは、コースを学んでいく上でも、その理解を大いに助けてくれるといえます。


本当に「行き詰る」とき

本当に「行き詰る」とき、私たちはそれまでの見方から別の見方へと導かれていくことになります。

コースの学びのプロセスで言えば、そうなったときこそが聖霊(の思考体系)を招き入れる準備が整ったときだと言うことができます。

言い換えるなら、そうなってようやく自我の思考体系から解放されるプロセスがはじまるといえます。

ようするに、これまでの見方とはまったく別の見方へと開かれていくためには、「今までの考え方ではうまくいかない」と気づく以外にはないということです。


”「これをやっても行き詰まり、やらなくても行き詰まる」と感じるようなとき、あなたは自我を選んだのだと、気づいてください。ということは、右に行っても左に行っても同じく恐ろしいという状態を見ているときには、その状態を超越するような別の見方があるはずだという意味になります。”

ー「赦すけど忘れない」ワプニック博士の講話よりー


自己(自我)を超越していく

上記のことから、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践は、「別の見方を選択する」という訓練をしていくのだということがお分かりでしょう。

「別の見方を選択する」ことを、コースでは「自我を教師とする代わりに聖霊を教師とする」というふうな言い方をします。

別な見方を招き入れるには、まず、これまでの自分(自我)の見方が誤りであるということを認識する必要があります。

誤りだと認識したなら、その見方、考え方というものに対して疑問視していくわけです。

疑問視することが、これまでの見方、考え方をやめる、放棄するということであり、つまりはそれが、「一歩退く」「ゆだねる」「明け渡す」ということの意味だということです。

実際に実践してみればわかることなのですが、それは、そう容易い実践ではありません。

というのも、これまでの自分の(見方/考え方の)ままでいたい、という精神力動が無意識のレベルで私たちを突き動かしているからです。

いわゆる、それが「自我の抵抗」「自我の防衛」というものであり、むしろ、それらを顕わにしていくことが、コースの実践で私たちに求められていることだということです。

それというのも、私たちは今や自我になってしまっているからです。

その自分は、自分だと思っている自分のままでいたいのです。

つまり、個人の自分、個別性、特別性の象徴である自分(自我)のままでいたいのです。

いわゆる、自我のままでいたい、自我を手放したくない、という自我の力動が顕わに自覚されていくことになるということです。

言うまでもなく、その自我の力動を認識していくことがとても重要であるどころか、必須なのだということを覚えておきましょう。

自我と同一化してしまった自分ではもはやどうすることもできないことを認識するとき、そのときこそ、自分を超えた存在(聖霊)の必要性を受け入れられるようになります。

そうなってこそ、これまでの自分の考えや見方を疑うことができるようになります。

それを、コースでは「一歩退いて、聖霊を招待する」という言い方で表現しています。

それは、自分だと思っている自分すらも疑問視していくということです。

そのようにして私たちは個別の自己(自我)を超越していくわけです。

そして、それによって、真の自己は思い出されていくことになるのです。

自分だと思っている自分(の見方)を真に疑問視していくとき、それは、「自分は分からない」ことを受け入れたということであり、それによって真のヴィジョン(心眼)は開かれていきます。

それは、これまで私たちがすっかり忘れてしまっていたもう一つの見方(視座)です。

それは、まったく肉眼で見ている世界を超越したところから見ている知覚です。

その知覚を思い出していくことによって、自分とは何者なのか?自分は誰なのか?がますます自覚されていくことになります。

ただし、通常の私たちは自我(二元性)のものの見方にとらわれてしまっていて、もう一つの別の見方(知覚の仕方)があることすらも忘れて、その知覚を忘れてしまっている状態にあります。

この世界に生きるほとんどの人々がその証拠として、「この世界は現実である、この世界は実在している、自分は人間である、自分はこの肉体である」とまるで疑うことなくそう信じています。

もう一つの見方があることを思い出すなら、私たちは別の見方を選択することができるのに、それができないのです。

それゆえ、この幻想世界の囚われの身となってしまっているのです。

そういうことを教えてくれているのが、コース(奇跡のコース/奇跡講座)です。

もう一つの見方があることを思い出していくために。

別の見方(真の知覚)があることを思い出すために。

肉眼で見ている世界を超えた知覚(心眼/ヴィジョン)を思い出すために。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)は、そのための方法を明確に示してくれている霊性の道だと言うことができます。


参考記事:JACIMサイト別館「赦すけど忘れない」(第7回)


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