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愛について

愛をこの世界に反映したものが「赦し」です

愛について言えるとしたなら、私たちは愛を知らない、ということです。

もっと正確に言うならば、この世界にいる私たちはまったくもって愛を忘れた状態になっていると言うことができます。

というのも、「自分はこの世界に居る」と信じているということ自体が、愛を忘れている状態であるからです。

ちなみに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)でいうところの愛は、普段、私たちが「愛」と呼んでいるものとはまったくちがうものであるということです。

愛は私たちにとってけっして分かり得るものではない、ということです。

なぜなら、愛とは、この世界を超えたものだからです。

普段、私たちが愛だと思っているものは愛の代替品(まがいもの)だということを覚えておきましょう。

この世界に愛はありません。

この世界は無です。幻想の影です。

無(幻想の影)であるものに、そこに愛などあり得るでしょうか。

なにせ、愛は、この世界にいる私たちにはけっして知り得るものではないということです。

ただし、私たちは「赦し」を通して、「愛の反映」に触れることはできるといえます。

つまり、愛をこの世界に反映したものが、「赦し」なのだということです。

別の言い方をするなら、この世界の幻想(夢)を知覚しながら愛に触れることができるとするなら、それは「赦しの視点」に立ったときだけだといえましょう。

つまり、聖霊の視点から(聖霊と共に)見るとき、私たちは「愛の反映」を知覚することができるということです。

そのとき、私たちは愛(の反映)に触れることができるのです。

そのための実践的な手段が、「赦し」なのだということです。

それは、「この世界を超えたところにいる(真の)自己」を思い出すための訓練でもあります。

それは、愛を体現していくための手段だということです。

つまりは、

この世界にいながら、

この世界で普通に生活しながら、

「これは自分が作り出した夢である」と気づいたところから見ている状態、

それが、愛、の状態であると言うことができましょう。

コースでは、それを「赦し」あるいは「奇跡」と呼んでいます。


奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-pII.13.1:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


自分も含めて、そこに見えるものすべてが虚偽であると気づいているとき、それが愛の状態(愛に触れている状態)なのだということです。

「赦しのまなざし」「愛のまなざし」というものは、まさに、そういうものです。

それは、まさに悟りの視点だといえましょう。

そして、コースでは、それを修得していくことを目的としているわけです。

愛をこの世界に反映したもの、それが「赦し」です。

そのときの知覚というものが、いったいどういうものか?

というなら、

この世界の中で何が起きようとも、さらには自分の身に何が起きようとも、そのすべてが一様に等しく同じ虚偽(夢/非実在)であるとして知覚しているということです。

それが、真の知覚(ヴィジョン)というものです。

コース学習者の私たちはコースの学びと実践を通して何をしているのか?

というなら、

つまりは、その真の知覚(ヴィジョン)を修得することを目的として、コース学習者の私たちは赦しの実践をしているということです。


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