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空想のストーリーの向こう側

肉眼で見ている世界を看過していくとき

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は私たちについて、「私たちは何も考えていない、何も見ていない、何も聞いていない、何も感じていない」と、あらゆるところで述べています。

その一つとして、ワークブックの最初のほうのレッスンでも次のように述べてあります。


私の考えには何の意味もない。(W-pI.10)
私の無意味な考えが、意味のない世界を私に見せている。(W-pI.11)

奇跡講座/中央アート出版社


それが意味するのは、

私はいない、

世界は無い、

ということです。

通常の私たちは、ここには世界があって、この世界の中で自分は生きていて、自分は存在している、、、というふうに知覚(解釈)しています。

でも、本当はそのすべてが妄想(空想)のストーリーであって、そのすべてが自分ででっち上げた夢にしかすぎないということです。

私たちはそこには無いものを見て、そこに世界が存在しているかのように知覚しているだけなのです。

私たちは、空想で作り出した世界(夢)を五つの窓(五官)を通して、そこに世界があるかのように錯覚しているだけなのです。

それが、肉眼で見ているこの世界であり、この宇宙物理的空間です。

さらにいうと、

私たちが肉眼の世界を見ていること自体が、いったい何をしているのか?

というなら、

実相を、天国を、神の愛を、拒絶しているだけでなく、

神を殺害して、自分自身を十字架に掛け続けていることをしているのです。

その真実を悟る(理解する)なら、誰がそれを良しとするでしょうか。


神の愛に支えられていながら、奇跡か殺害かの選択を難しく思う者がいるだろうか。(T-24.Ⅳ.9:8)

奇跡講座/中央アート出版社


じつのところ、私たちは毎瞬のように殺害のほうを選択し続けているということです。

私たちは今この瞬間にも殺害ではなく、愛のほうを選択し直せるというのに、そしてそうするならば、そここには素晴らしき恩寵があるというのに、いったい私たちは何をしているのでしょう?

いったい何のために盲目であり続けようとするのでしょう?

いったい何のために空想のストーリーを見続けようとするのでしょう?

そして、この今も空想のストーリーを経験しているかのように知覚している「私」とはいったい誰なのでしょう?

その疑問を投げかけていくとき、空想のストーリーを超えてその向こう側にあるものを認識するようになっていきます。

それは、ずっと解離して、ずっと忘れていたものです。

その空想のストーリーの向こう側にあるものを認識するようになるにしたがって、私たちはもう一つの別の見方(選択肢)があるということが思い出されていきます。

そのようにして、正気(正しい心/聖霊)の思考体系が思い出されていくということを覚えておきましょう。

もう一つの別の見方、つまり、正気の思考体系から見るとき、そこには、確かさ、明瞭さ、明晰さ、といったクリアな知覚があります。

そのクリアな知覚こそが、コースで「聖霊のヴィジョン(心眼)」あるいは「真の知覚」と呼んでいるものです。

いわゆる、それが「赦しの視点」なわけです。

そのようにして私たちは、空想のストーリーの向こう側へ、つまり、肉眼の知覚を超えていくことができるのだということです。

そこへと戻っていくならば、そこには絶対なる確かな平安があります。

この世界とは一切関係ない、一切影響を受けない平安があります。

それは、すべてを包含している平安です。

それが、神の平安と呼んでいるものです。

空想のストーリーを超えていくとは、この世界の夢を看過するということであり、すべてを虚偽として包含して見るということであり、それがコース学習者の私たちが目指しているものだということです。

私たちが肉眼で見ている世界を看過していくとき、つまり、「ヴィジョン」と呼ばれる真の知覚を取り戻していくとき、いまここに愛が臨在しているのを知覚するようになるということを知っておくとよいでしょう。


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