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自我は霊性(スピリチュアリティ)すらも隠れ蓑にして自己を満たそうとする

特別性を満たそうとする自我

非二元や悟りについて語っている人のことを「ノンデュアリティ・スピーカー」というふうな呼び方をします。

近頃は、そんな彼らをあちらこちらで見かけられるようになったといえます。

20年前、10年前とは、まるで比になりません。

時代の流れをみると、ずいぶんと変わったと感じるわけです。

つまり、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティも、ずいぶんとメジャーなスピリチュアリティになったなと実感するわけです。

「非二元」「悟り」というものが、こんなにもメジャーなスピリチュアリティになるとは思いもよらなかったことです。

とは言いましても、それと同時にノンデュアリティのスピーカーさんたちが語る動画とかを観ていて、とても残念に思ったりもします。

というのも、ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティがカジュアルになった反面、浅はかなスピリチュアリティに成り下がったように感じてしまうのです。

それは純粋な気づき(悟り)の体験であったにもかかわらず、いつしかその語っている内容がまるで言葉遊びのようになり変わってしまっていると感じるわけです。

一瞥しただけ、垣間見ただけの体験であるにもかかわらず、「自分はもう目覚めた人」として、特別性を満たそうとしているのが丸見えです。

私も人のことは言えないといえるでしょう。

つまり、真理をこの世界の夢の中に持ち込もうとしたり、悟り体験を自分の特別性を満たすための道具として使ったりすることは、よくあることです。

「悟り」や「非二元」について語ることは、人によってはそれがとても参考になるかもしれませんが、語られるその内容があまりにも稚拙であると言わざるを得ません。

明らかに自我の思考体系と同一化した視点から語られていることが分かると言いましょうか。

それがまるで言葉遊びをしているように、あるいは、表面的な浅はかなものに見えるということです。

何を申したいのかと言いますと、要は、そのようにして自我は霊性(スピリチュアリティ)すらも隠れ蓑にするのだということです。

言い換えるなら、それが自我がすることであり、つい私たちがやってしまうことなのだということです。

コースでは、それを「真理を幻想に持ち込む」という言い方をします。

この世界の夢から目覚めていくことを目指している私たちは「幻想を真理へと運ぶ」ことをしていかなければならにもかかわらず、幻想の中に真理を持ち込んで、非二元を言葉で弄ぶことをするのだということです。


これは概念を弄ぶコースではなく、概念を実際に適用するコースである。(T-11.Ⅷ.5:3)

奇跡講座/中央アート出版社


真理(悟り/非二元)を概念で弄ぶことをしてしまわないように、私たちは警戒していなければならないということです。

コースの学習者であるならば、この世界の夢から目覚めていきたいのであるならば、私たち(自我)はそういうことをしてしまうのだということを重々理解しておく必要があるということです。

(それがいけないということではありませんが、)もしそうしてしまうならば、せっかくコースを学んでいるにもかかわらず、コースが教えている真髄から逸脱してしまうことになるということです。

「真理を幻想に持ち込む」ことは、霊性の道の歩みを進めてくれるものではないどころか、後退させるもの/邪魔するものであるということを私たちはとかくわきまえておかなければならないといえましょう。

コースの学びが深まっていって進歩したコース学習者(神の教師)になっていくならば、ティーチャーになっていくのではなく、ますます偉大なる生徒になっていくということを知っておくと良いでしょう。

つまり、外側に見える兄弟たちを自らの教師としていく生き方になっていくということです。

進歩したコース学習者はコースで言うところの「神の教師」となっていって、知覚するもの、体験するもの、そのすべてを赦しのレッスンとして使っていくようになるということです。

そのようにして、

「外側に世界は無い、他者はいない」
=「すべてが自分である」
=「私たちはつながっている一体性(ワンネス)である」

ということを自分自身に教え学んでいくようになっていきます。

それと比べて、学ばれていない者(私たち)は個人の自分の欲求を満たすために、個人の存在を証明するために、何だって使おうとするわけです。

自分の特別性を満たすために、個人性を保持するために、スピリチュアルな体験や悟り体験すらをも使って、自我の隠れ蓑にするわけです。

ときには、コースすらも使って、自分(自我)を満たそうとします。

この世界にいる私たち誰もがみな、そういうことをする資質を持っているのだということをわきまえておくと良いでしょう。

自我は、いわゆる外側から得る、他者から得るということをして、自分の欲求を満たそうとするのだということです。

その関係性のことを、コースでは「特別な(愛の)関係」と呼んでいます。

何度も申しますが、それがいけないということではありません。

その自我がしていることに気づいていく、そして、その自我を咎めずに見ていくことが、私たちがしていく訓練(実践)なのだということです。

そうするならば、私たちは「特別な関係」を「神聖な関係」にしていくことができのだということです。

ようするに、それを兄弟の中に見て、自分の中に見て、それが自我がしていることなのだと気づいていくこと、それを認識していくことがとても重要なのだということです。

自我のそのような精神力動に気づいて、そして、その自我を咎めずに見ていくならば、自我は自ずとその力(パワー)を失くしていきます

そして、ますます正気(の思考体系)の自分が育まれていくことになります。

どのように育まれていくのか?というなら、

個別性、特別性を満たしていったとしてもけっして幸せにはなれないことがますます認識できるようになっていきますし、それをし続けていることがいかに高い代価を支払っているかもはっきりと認識されていくようになるということです。

そうなるとき、自ずとコースの学びと実践はますます徹底した妥協のないものとなっていくといえましょう。


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