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自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直す

今、自分はどちらの目的で見ているか?

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で、私たちは何をしていくのか?

というならば、

自我を教師とするか?聖霊を教師とするか?

そのどちらの教師を選択するのか?ということにフォーカスしていくということです。

ただし、まず、その実践以前に、

「自我を教師とする」とは?
「聖霊を教師とする」とは?

ということについて、コースの形而上学をしっかり理解しておく必要があるのは言うまでもありません。

実践的なところから言いますと、「それは何のためのものか」というところから見ていく、ということです。

それは、目的は何か?ということであり、つまり、どちらの目的で見ていくか?ということです。

いわゆる、その「目的で見ていく」という見方こそが、コースの実践における特徴的なところだと言うことができます。

それは、「何のためのものか」という問題である。(T-2.Ⅲ.3:3)

奇跡講座/中央アート出版社

ようするに、

今、自分はどちらの目的で見ているか?

というのが、コースの学習者である私たちが実践においてフォーカスしていくべきことなわけです。

目的で見ていくとき、その目的は二つの選択肢しかありません。

自我の目的か?聖霊の目的か?のどちらかです。

自我の目的は、「分離は実在している、この世界は実在している、自分は肉体である」と信じ込ませることです。

一方、聖霊の目的は、「分離は起きていない、この世界は実在していない、虚偽である」という知覚へと導くことです。

実際、自分自身を観察していくと分かることですが、私たちはいつも自我の目的で見ていることを自覚することができます。

つまり、私たちはいつも自我を教師としていることが自覚されるわけです。

そうなって、ようやく私たちは自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直すという実践をしていく必要性を実感することになるといえます。

私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。(W-p1.34)

奇跡講座/中央アート出版社

では、聖霊を教師とするとは?

というと、

それは、自我を教師とするのをやめる、という訓練なのだということです。

さらに、「自我を教師とするのをやめる」とは?

というと、

自分が考えていること、そして自分が知覚するもの、そのすべてに対して疑問視していくということです。

それが、「私は別の見方で見たいです」「私はもう一つの見方で見たいです」「私は聖霊の見方で見たいです」ということの意味なのだと知っておくと良いでしょう。

そう、そのとき、私たちは聖霊を教師として招き入れていることになるのです。

そこまでが、私たちすべきことです。

そうしていくなら、聖霊の答えとして、正しい知覚(真の知覚)がもたらされていくことでしょう。

そして、それをコースでは「奇跡」「赦し」と呼んでいて、コース学習者の私たちはその「奇跡」「赦し」を通して、真の知覚を修得していくことを目指しているということを覚えておきましょう。


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