コースの教師についてはよくよく吟味しましょう
自分に教えて学んでいく
コース(奇跡のコース/奇跡講座)は自学自習の道と呼ばれています。
コースの学びが深まっていくとき、「自学自習」の本当の意味がはじめて分かってくるといえます。
というのも、コースの学びが深まっていくならば、ここには自分以外の誰もいないのだということが分かってくるからです。
つまり、進歩したコース学習者になっていくとき、その歩みは自ずと自分に教え学ぶというものになっていくといえます。
コースの観点から言えば、その学びをしているのは神のひとり子です。
神のひとり子が夢を見ているだけであり、神のひとり子がその夢から目覚めていくための学びをしているだけです。
コースの学びが進んでいくならば、そのような認識と共に、そのような知覚へと移行していくということを知っておくといいでしょう。
たとえ他の誰かからコースを学んでいたとしても、学びが深まっていって、「自分は心である」ということを自覚/認識するようになるならば、誰もがその「自学自習」の道を歩みはじめることになるということです。
そういうこと言うならば、「自学自習」の意味することは、形態とは一切関係がないということです。
もし形態上で「自学自習」にこだわってコースを学んでいるとしたなら、実際のところ、自分一人で学んでいくことはかなり困難であろうと言うことができます。
というのも、最初の段階では何よりもまず、コースで何が述べてあるのか?についてはまったくのチンプンカンプンだといえますし、何をどこからどう取り組んでいいのかもわからないはずです。
ですから、すでに自分よりも先にコースを学んでいる先達から学ぶことは有益どころか、学びのモチベーションを高めてくれるということでいえばむしろ助けになるといえるでしょう。
上記でも申しましたように、「自学自習」とはこの世界における学習形態とはまったく関係ないということです。
むしろ、コースが教えている内容を理解するようになるならば、つまり、学びが進んでいくならば、この世界には「自分」しかいないということが理解されてきますし、その「自分」が自分自身に教えて、そして学んでいくだけということが理解されてくるということです。
つまり、「自学自習」の意味は、自分一人で頑なに独学でコースを学ばなければならないということではないということです。
誰かから学ぶのも、一人で学ぶのも、形態はどちらでもかまわないということです。
ただし、コース・ティーチャーや他のコース学習者と学んでいこうとするときに、注意しなければならないことがあります。
どのコース・ティーチャーから学ぶのか?
どんな仲間たちとコースを学ぶのか?
それはとても重要です。
というのも、私たちはコースが教えていることをいとも簡単に歪曲、矮小化して理解しようとするからです。
そして、実際に、そのようにコースが歪曲、矮小化されて教えられ、学ばれているケースが起きていることは否めません。
(例えば、聖霊のガイダンスに従っていくことがこの世界の夢から目覚めていくための方法であり、それがコースの教えだと云っているコース・ティーチャーがおられたりしますが、コースの思考体系(形而上学)を本当に理解するならばまったくおかしな話です。)
そのことについて、ワプニック博士はこう云います。
「コース(奇跡のコース/奇跡講座)は容易く学べる」「コースは楽しく学べる」と言ってるコースの教師には気をつけなさい!と。
さらに、
「私は実相世界に到達している」「私は目覚めている」と言っているコースの教師にも注意しなさい!とも云っています。
それが何を意味するのか?と言うと、
つまり、
コースはそう生易しい霊性の道ではない!
ということです。
実相世界に至るということはそう容易くはないだけでなく、そのためにはそれ相当の長い訓練の時間を要するのだということです。
訓練がなされているコース・ティーチャーと訓練がなされていないコース・ティーチャーとでは、語るその言葉の深遠さに雲泥の差ほどのちがいがあるということを覚えておきましょう。
訓練がなされていないならば、訓練をしていくほかありません。
コースはそういう霊性の道なのだということを知っておくことは、コースを真に学んでいこうとする学習者、コースの学びを通して非二元や悟りを体現していこうと思っている学習者にとっては必要事項といえるでしょう。
何のためにコースを学んでいるのか?
何を真に望んでいるのか?
その目的を見失わないようにするだけでなく、いつもその目的を忘れることなく強化していくことが、コースのイエスが私たちに求められています。
言い換えるならば、その目的がしっかりと明確であるならば、コースのイエス述べていることを素直に受け入れていくことができるようになっていきます。
それは、自分に教えて学んでいくほかないのであり、そうしていくことが神の教師としての生き方なのだと言うことができるでしょう。
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