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「悟り」の体験と「悟りを生きる」ことには大きなレベルの違いがある


極楽トンボ

この世界は幻想なんだから、どうせ夢なんだから、だいじょうぶ、すべては愛なのだから、大丈夫、、、深刻になる必要なんてない、、、自分たちはこの夢の世界を味わうために来たんだから、この夢を楽しめばいい、、、

というようなことを言っているノンデュアリスト(非二元論者)あるいはノンデュアリティスピーカーさんたちを多く目にします。

ちなみに、彼らのような人たちのことを、ワプニック博士は、「極楽トンボ」という言い方で呼んでいます。

実際には、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者の中にも「極楽トンボ」と呼べるような学習者が多くおられるのも否定できません。

すべては愛なのですから、分離は起きていないのですから、、、聖霊にゆだねましょう、聖霊に祈りましょう、、、

といったような学びと実践をしているコース学習者の方々のことです。

それは、彼らを批判するのではありません。

彼らは、ただたんにコースの学びがまだ浅いか、もしくは、コースの教えを理解していないかのどちらかだということです。

というのも、コースが教えていることを理解するようになるならば、明らかにコースはそのような教えではないということが分かるからです。

コースが教えていることを理解しているならば、この世界がどういう世界なのか?自分たちはいったい何をしているのか?を理解していますし、「極楽トンボ」のような学び方や言動はけっしてしないでしょう。

その学びと理解が深まっていくならば、むしろ、愛、平安、真理といったものに対していかに私たちは拒絶しているか、つまり、自我の力動について語るようになるといえます。

そういうことでいえば、ノンデュアリスト(非二元論者)は二通りの種類に分けられるでしょう。

一方は、この世界の夢の中で楽しもう、幸せになろうとする生き方をするノンデュアリストであり、

そしてもう一方が、この世界の夢から目覚めていくことを目的にこの世界を見ていこうとするノンデュアリストです。

そして、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、後者のほうを生きようとする探究者たちのための道だと言うことができます。

ようするに、コースが純粋な非二元の霊性の道ピュア・ノンデュアリティ)と呼ばれているのは、それが所以だということを知っておきましょう。


悟りを生きる

真理を探究する者、つまり、純粋非二元を探究する者にとって理解しておかなければならない重要なことは、「悟り」と「悟りを生きる」ことは、まったく違うということです。

もっと分かりやすくいえば、「悟りを体験しただけの人」と「悟りを生きている人」には、悟りのレベルの大きな違いがあるということです。

そこには雲泥の差ほどの大きな違いがあります。

「悟りを体験すること」と「悟りを生きる」とでは、何が違うのか?

というなら、訓練(修習)が成されているか、成されていないか、ということです。

訓練(修習)なされていないならば、いともたやすく分離(二元性)の世界に没入してしまうことになります。

ときには、非二元(ノンデュアリティ)や「悟り」というスピリチュアリティすらも駆使して、それを隠れ蓑にして、二元性の世界の中に没入してしまうことはよくあることです。

「幻想だ」「大丈夫だ」「楽しめばいい」というようなことを口にする極楽トンボと呼ばれる人たちが振舞う態度が、まさに、それです。

自分とは誰なのか?ここがどんな世界なのか?ここで私たちは何をしているのか?

彼らはそのことについて無知であるのか、もしくは、忘れてしまっている状態なのかだと言うことができます。

そうであるならば、悟りを生きているとはけっして言えません。

たとえ悟りやワンネスの体験を一瞥したとしても、それではまだ不十分だということです。

つまりは、この分離の世界の夢を見続けているかぎり、私たちは学ばなければならないもの、訓練していかなければならないものがあるということです。

この夢がどういうものであるか?何の目的でこの夢を見続けているのか?

私たちがそのことを真に理解するなら、真理の探究の道のりには、その先があることが分かるというものです。

そのとき、私たちは、「悟りを生きる」というその訓練がはじまるといえます。
(コースではそれを「聖霊を教師とする」「聖霊の教師と共に生きる」という言い方をします。)

ただし、その訓練は、必ずしも悟りやワンネスの体験をしなければ歩み出せないということではありません。

そういう体験がない者はその道を歩むことはできないということではけっしてないということです。

その道は、私たちに等しく示されています。

その道こそが、コースというスピリチュアリティ(霊性の道)です。

悟りを体験する者や、悟りについて語る者は、多くおられます。

ただ、「悟りを生きている者」は、本当に、ごく稀だといえます。

それは、コースの学びが深まっていくにつれて、見分けることができるようになっていきます。

というのも、彼らは自と他の共通の利害を生きているので、すぐに見分けがつきます。

彼らは、自分と他者を分離した存在とは見ていません。

心の訓練(修習)が成されている者は、そういう意味ですぐにわかります。

コースでいうなら、そのような人をまさに「進歩した神の教師」と呼ぶわけですが、私が知るその一人が、ケネス・ワプニック博士です。

ワプニック博士はこう云います。

”「2+2=4」の思考体系を生きている人の言葉を信じないでください、「2+2=5」の思考体系を生きている人の言葉を聞きなさい”

と。

ちなみに、「2+2=5」の思考体系を生きている人、つまり、悟りを生きている人は、ほぼ皆無と言ってもいいくらいです。

言い換えるなら、それほどまでにその道は誰もが歩むような霊性の道ではないと言うこともできます。

コースは、まさに、「2+2=5」の思考体系を生きようとする者たちの霊性の道です。

「2+2=5」の思考体系を生きる、つまり、「悟りを生きる」ことを目指して、かくいう私もコースという霊性の道を歩んでいるということです。


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