このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない
すべてを包含する平安
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践によってもたらされる成果とは何か?
というなら、「平安」だと言うことができるでしょう。
しかも、その「平安」とは、「すべてを包含する平安」です。
コースでは、それを「神の平安」と呼んでいます。
(正確には、「神の平安の反映」なわけですが)
その平安(神の平安)は、絶対なる平安と言うことができます。
なぜなら、その平安(神の平安)は、この世界やこの人生とは一切関係がないからです。
その平安(神の平安)は、個人的な平安とはちがい、個人を超えたところの平安であり、それは、赦しのまなざし、つまり、聖霊のヴィジョンによってもたらされる平安であるわけです。
コースの赦しの実践を通してもたらされる神の平安(の反映)は、通常の私たちが経験している平安とはまったくちがうものだということです。
そして、コース学習者の私たちは、この世界とは一切関係のない、この世を超えたその神の平安を思い出すために、赦しの実践をしているのだということを知っておきましょう。
誤ったコースの学びと実践をしていた頃の私
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びにおいて、その学びが浅い段階においては、ほとんどのコース学習者がまったく間違った学びと実践をしてしまうといえるでしょう。
もちろん、私自身もかつてそうだったということです。
なにせ、コース形而上学をまったく理解していなかった当時は、個人の自分がコースを学んでいると思っていましたし、個人の自分のまま平安になることを目指して「赦し」の実践をしていたと言うことができます。
動揺したとしても、内側を直視することもしないで、聖霊やイエスを頼りに、その動揺を否認/抑圧するようなかたちでただ平安になろうとする実践をしていたといえます。
それでもって、自分は「赦し」の実践ができていると勘違いしていたのでした。
「平安」「愛」「聖霊」といったものばかりにフォーカスして、そうではないほう(闇、自我)を直視することなどまったくしていなかったということです。
今振り返るなら、それが否認、抑圧であるとよく分かります。
動揺を隠蔽することにやっきになっていたということです。
その当時は、たしかにそのような実践のやり方で「平安」が得られていたこともあったわけです。
今からみれば、それで得られる平安は、「個人レベルの平安」、つまり、「自我の平安」以外の何ものでもないと分かります。
当時は、その「個人的な平安」に留まり続けることが、赦しの実践であると思い込んでいたのです。
そして、そのような実践をしていけば、その延長線上に実相世界があるのだと思っていたのです。
つまり、心地よい平安(ハッピー)な状態でいることを心がけて、その状態に留まり続けていく訓練をしていくならば、いつのときか実相世界に到達できるものだと思っていたということです。
そういう勘違いは、コースの学びが浅い段階においてはよくあることだといえましょう。
そのような学びと実践の特徴は、あまりにも漠然とした曖昧なものであると言うことができます。
当時の私でいえば、コース形而上学をろくに理解することなく、平安、愛、聖霊、神、真理といったものにフォーカスしていく実践がコースの実践だと思っていて、曖昧模糊な学びと実践をしていたということです。
たしかに、そのような学びと実践をしていたとしても、ときに、愛の体験、光の体験、至高体験などの経験をしたりすることがあります。
そして、そういう体験をすると、なおさら、そのような体験の延長上に実相世界や目覚めがあると勘違いしてしまうわけです。
でも、コースの形而上学をしっかりと理解するようになっていくならば、それがまったく歪曲した理解だったということが分かってきます。
私たちが目を向けていく方向は、愛の体験、光の体験、至高体験といった体験のほうではないことが分かってくるということです。
実際のところ、愛の体験、光の体験、至高体験といった体験は、コースの学びと実践においてはほとんど関係がないと言うことができます。
それらの体験を価値あるものとすることは個別性、特別性を強化することに仕えるだけで、本来の目的とはまったくちがった方向へと向かうものであるといえます。
覚えておかなければならないのは、コース学習者の私たちがしていかなければならないのは、愛、光、喜びなどといったものを阻んでいる「障壁」を見つけ出して、それらを取り消していくことなのだということです。
なので、私たちがフォーカスしていくべきは、愛、光、喜びなどとは真逆の方向なのだということです。
このコースは、愛の現存を自覚できなくしている障壁(自我)を見つけ出していく道なのだということです。
そのことについて、テキストの序文で述べられています。
コースを学びが浅かった頃の私は、「愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去る」ということの意味もまったく理解することなく、ただ愛とか平安とか聖霊とか、そういうものばかりにフォーカスしていただけだったと、今では分かります。
コースは愛、光、平安といったものとはまったく真反対のものにフォーカスしていく、アプローチしていく道であるということでいえば、コースは他のスピリチュアリティとはまったく異なる道だといえましょう。
いわゆる、ノンデュアリティや悟りのスピリチュアリティで練習するようないまここの平安に留まる、といった実践とはまったく異なるということです。
ちなみに、愛、光、喜びに満たされたり、いまここの平安に包まれたりすることが、いけないということではありません。
愛、光、喜びに満たされることも、いまここの平安に包まれることも、それらは何の問題ではないので、フォーカスしなくてもいいということです。
私たちがしていかなければならないのは、問題があるところを見つけ出して、そして訂正していくことなのです。
問題なのは、むしろ、私たちが愛、光、平安といったものを拒絶していることのほうが問題なわけです。
真の問題があるところを直視(正視)していかないならば、何の解決にもならないということです。
そして、その問題を取り消していくことが、私たちにとってよほど意味のあることなのだということです。
恐れの環を通り抜けていきなさい
コース学習者の私たちは、真の原因に戻っていくこと、つまり、心のほうにフォーカスしていくことが求められているのです。
もっといえば、「心」の闇のほうにフォーカスしていくということです。
心の闇を通り抜けていくことが、私たちがしていくべきことなのです。
コースの実践とはそういうものです。
にもかかわらず、「心」に戻らせないように、さまざまな「実相の代替」でごまかして、分離の夢を見続けようとするのが私たち(自我)だといえます。
自我はまさにそういうことをするのであり、私たちは、その自我がしていることを認識して、その自我を咎めずに正視していくことが私たちに求められているということです。
コースの学びが進んでいくとき、私たちはその自我の防衛(贖罪への恐れ)をますます認識するようになっていきます。
それらを正視していくことによって、それは訂正(取り消し)されていくことになります。
その実践をコースでは「聖霊と共に見る」という言い方をします。
私たちコース実践者がしていくことは、まさにそれです。
要約するならば、
コースの実践のプロセスにおいて、愛のような体験や光の体験、喜びの体験、いまここの平安に触れていく経験などもしていきますが、コースでは、そういったものを重視していないということです。
むしろ、それらの真反対のものにフォーカスしていくということです。
いわゆる、闇、自我、罪悪感、恐れといったものを正視していくことが、私たちがしていくことなのです。
私たちはそれらを通り抜けていくことをしていくのだということを覚えておきましょう。
そのことに関して、ワプニック博士はこう云います。
わが家へ帰るためには、つまり、実相世界へ至るためには、私たちは恐れの環(T-18.Ⅸ.4)を通り抜けていく必要があるわけです。
恐れの環こそ、愛の現存を自覚できなくしているもの(障壁)であり、つまりは、恐れがあるその向こうに愛や光があるということだからです。
このコースは、愛、光、喜びを直接的に見つけていくというよりも、愛、光、喜び、それらを遮っている障壁を見つけて、それを通り抜けたところに間接的にそれを見つけていく道なのだということです。
以上、上記に述べたことからいっても、コースは他のスピリチュアリティとはまったく真逆のアプローチをしていく道であるということがお分かりかと思います。
そして、それがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道の大きな特徴でもあるといえるでしょう。
”コースは愛の意味を教えることを目指してはいない。”
その意味を真に理解するとき、私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えの素晴らしさを真に理解するようになるでしょう。
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