幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない
自我を直視する、幻想を直視する
世界は無い。
この世界は幻想である。
これが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えている中心概念となるものです。
とはいえ、その教えは私たちにとってそう容易く受け入れられるものではありません。
それでもコースという霊性の道を本気で歩もうとするのであれば、私たちはコースで教えられているそれらの概念を受け入れていく必要があります。
コースを真摯に学んでいきたいのであれば、そして、コースの教えを修得していきたいのであれば、自分にとって都合のいいところだけを受け入れて、都合が良くないところは除外するということはけっしてあってはなりません。
この世界は実在しない。この世界は無である。
コースが教えている内容を文字通りに受け入れていく必要があるということです。
実際、コースの教えを受け入れようとするとき、逆に、この自分はどれだけこの世界のものに意味、価値を置いているか!を自覚することになります。
自分はこの世界のあらゆるものに価値を置いていて、それらが大事だと思っていて、コースが教えていることとはまったく真逆のことを信じていることがますます認識されて(顕わになって)くるといえます。
つまるところ、自分は聖霊を拒絶して、自分は自我を選んでいる、自分は神の愛を恐れている、ということが認識/自覚されていくということです。
それがどういうことを意味するのか?というなら、
「自分は幸せよりも、むしろ罪人でいたい、苦痛、苦しみを好んでいたい。自分は平安でいたくない、傷ついていたい、卑小で、脆弱で、惨めな存在でいたい」と望んでいるということです。
ようするに、「自分は神の子である、神と一体のワンネスである、愛である、完全である」ことをまったく否定しているということが認識/自覚されていくわけです。
コースの学びが進んでいくにつれて、無意識の中に隠蔽されていたそういう部分が明らかになっていくということです。
そして、私たちがわきまえておかなければならないのは、そういうことを認識/自覚していくことが、コースの実践で私たちに求められていることなのだということです。
むしろ、そういうものを認識/自覚していかない限り、私たちはどうやってそれらを取り消し、訂正していくことができるというのでしょう。
自らがあえて自我(幻想)を願望している(選んでいる)ということを認識していかないかぎり、訂正、取り消しがなされることはないということです。
だからこそ、私たちは、「自我を直視する、幻想を直視する」という実践をしていかねばならないわけです。
それは、認識/自覚していくことによって、つまり、聖霊と共に咎めずに見ていくことによって、その訂正がなされるということです。
逆に言えば、それらが無意識に無自覚なままであるならば、訂正(取り消し)もあり得ません。
夢から目覚めていくには、それらを見つけ出していく、認識/自覚していく必要があるということです。
コースでは、そのことを「愛を阻む障壁を見つけ出す」という言葉で表現しています。
このコースは、訂正、取り消し(Undoing)の道であるということを覚えておきましょう。
そして、訂正、取り消しがなされることを、コースでは「奇跡」と呼んでいて、それが私たちが体現していくものなのだということです。
それがどんな惨状であろうが、「それらはすべて自分で自分に望んでやっていることなのだ」というところから自我(幻想)を直視するとき、私たちは平安の教師と共にそれらを見ることができるのです。
そのとき、自我を直視しているその主体は、すでに自我から離れています。
幻想から離れています。
それが、平安の教師、つまり、聖霊と共に見ている状態です。
その知覚は、すべてが全一に虚偽である、ことを見せてくれます。
それが、知覚の訂正というものであり、それを「奇跡」と呼んでいるのだということです。
コースで言うところの「奇跡」とはどういうものか?
というなら、以上に述べたように要約することができます。
何度も申しますが、このコースは、「奇跡」を通して訂正をしていく道なのだということです。
それゆえに、このコースが、『ア・コース・イン・ミラクルズ』(奇跡のコース)と呼ばれている所以であるということを知っておくとよいでしょう。
ようするに、私たちは「奇跡」を行っていくために、このコース実践において、自我を直視していくこと、幻想を直視していくこと、それが求められているのだということを肝に銘じておきましょう。
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