見出し画像

この世界を死によって去るのではなく、真理によってこの世界を去る


コース学習者のジレンマ

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践として「赦し」をしていけばいいのだということは分かっていても、その「赦し」をどうやってやればいいのか?がよくわからない、、、

といった具合に、コースを学ぶ多くの学習者がそんなジレンマを感じているといえます。

コースを学んでいるつもりではあるけれど、日々のコースの実践がまったくできていなかったり、学んでも学んでも、コースが教えていることの理解が曖昧なままでよく分からなかったりするということは、たとえコースを何年、何十年と学んでいる学習者ですらも、そういうことはよくあるといえます。

とくに、自分にとって馴染みやすいコース・ティーチャーや、あるいは、彼らの関連本でコースを学んでいる場合、そういうことが起こるといえます。

なぜそういうことが起こるのかというなら、コースをもっと簡単に早く学べる近道があるのではないか?という想いから、コースを安易に学ぼうとする心の働きから、そうなってしまうということです。

じつは、それこそが自我の防衛(抵抗)なのだということです。

いわゆる、真理に対する防衛が働くのだということです。

コースを学びたくないという自我の防衛(抵抗)がそうされるのです。

その抵抗は私たち誰もの中にあり、それは他人事ではないということです。

コースを学んでいくことに対して自我の抵抗が起きるのは当然なことだということです。

コースの歩みはまるで向かい風に逆らって歩んでいくようなものだということを知っておくと良いでしょう。

そのことを知っておくことは非常に大事どころか、そのことを知らないならば、コースの歩みは葛藤とジレンマで苦悩することになるといえます。

コースの歩みを進めていくには、自分の中に真理に対する抵抗(自我の抵抗)があることを理解していくことです。

コースの本当の学びはそこからはじまると言ってもいいでしょう。

つまり、その自我(の抵抗)と向き合っていくことが、私たちがコースの実践でしていくことなのだということです。

そういうことについて丁寧に解説してくれているのが、ケネス・ワプニック博士です。

ですから、私がケネス・ワプニック博士が解説する教材でコースを学ばれることをお奨めするのがそういうことなわけです。


実相世界への階梯(道すじ)を理解すること

私自身のコース学習の経験から言えるのは、分かりやすそうで馴染みやすそうなコース・ティーチャーや、あるいは、彼らの関連本でコースを学んでいったとしても、実相世界への道すじ(階梯)が見えくることはないということです。

そして、結局は、コースの学びの階梯の一番下に留まってしまうことになりかねないと言うことができます。

そういったことはコースの学習者たちにとってよくあることで、それゆえに、ワプニック博士は、「学びの階梯の一番下に留まらないように」と私たちに注意を促しています。

私自身がそのような経験をした当事者なので、できるならそういう経験をしないで済むように、ワプニック博士が解説する教材でコースを学ばれることを、私はコース学習者の方々に提唱しているわけです。

というのも、ワプニック博士が解説する教材で学び、そしてしっかり理解していくならば、どのようなプロセスを経てどうやって実相世界に至るのか?どのようにして真のアイデンティティーを思い出していくことになるのか?その道すじ(階梯)が明瞭になっていくからです。

その階梯が見えてくるようになるならば、それがさらなる学びと実践へのモチベーションとなっていくといえます。

このコースはけっして曖昧な道ではなく、確実に歩んでいくことのできる霊性の道なのだということです。

もし実相世界への道すじ(階梯)が見えてこないのであるならば、正しくコースが学ばれていないと言うことができます。

その道すじ(階梯)が分からないならば、当然、コースを学び続け、実践し続けたところで、どこにもたどり着くことはないでしょう。

イエスや聖霊に頼っていれば、彼らが実相世界へと連れていってくれるとでも思っているのなら、それは大間違いです。

ワプニック博士も次のように云っています。

「イエスや聖霊が、まるで魔法使いのようにあなたを目覚めさせてくれるのではありません」と。

コースの歩みは、けっしてふわふわしたようなスピリチュアリティではないということです。

でも逆に言い換えるなら、堅実な道だということです。

「赦し」がよく分からない、ということであれば、それはコースの教え(コース形而上学)をちゃんと理解していないからであり、ならば、コース形而上学をもっと学んで理解を深めていくしかないということです。

コースを長年学んでいるとしても、学びの階梯の一番下に留まったまま、コースを学んでいるつもりになっていることはよくあることです。

その典型的なケースとして挙げられるのが、コースで言う「心」の自分(真のアイデンティティー)を自覚することのないまま、つまり、個人の自分のまま、その個人の自分がコースを学んでいると信じている状態です。

他にも、自分の人生をより良いものにしよう、人生を平安で幸せなものにしようとして、コースを学んでいる状態もありますす。

もしそうだとしたなら、コースを学んでいるつもりになっているだけで、コースの学びの階梯を上っていくことなどあり得ないといえるでしょう。

そういう学び方をしているのならば、そもそもコースでなくてもいいわけです。

巷の悟り系のスピリチュアリティや、ノンデュアリティのスピリチュアリティでもいいわけです。
(コースとノンデュアリティのスピリチュアリティとの違いが分からないのであるならば、コース形而上学をもっとしっかり理解する必要があるといえます。)

コースの形而上学がしっかり理解されていくいくならば、その実践ができるようになるだけでなく、赦しの視点(ヴィジョン)が開かれていくことになります。

そのヴィジョンとは、すべてを包含して虚偽として見えている知覚(真の知覚)のことを言います。

とはいえ、赦しの視点から見ることができるようになるのもそう簡単ではないということです。

そのためには地道なコース形而上学の学び、そしてその理解、さらにその理解に基づいて実践していくことは絶対に欠かせないということです。


コースの霊性の道が容易ではない理由

コースの教えを理解すればするほど、このコース(霊性の道)の歩みはそんな容易ではないということが分かってくるといえます。

なぜ容易ではないか?

それは、コースという霊性の道が困難な道だからということではありません。

そうではなく、私たちは無意識のところで真理に対してひどく恐れているからなのです。

私たち誰もがみんな、真理を恐れているということです。

私たちは真理を恐れて、この世界の夢の中に居るということです。

コースが教えていることを理解するようになるならば、そういうことが自覚/認識されていきます。

もっといえば、この世界がどのような世界であるか?も認識するようになります。

コースはこの世界について、”飢えと渇きに苦しむ 生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃っぽい世界” (W-pⅡ.13.5:1)、あるいは、””罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系” (T-13.in.2:2)というふうに教えてくれています。


あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。この世界をよく見なさい。そうすれば、その通りだとわかるだろう。なぜなら、世界は処罰の象徴であり、そこを統治しているかに見える法則はすべて、死の法則だからである。(T-13.in.2:2-4)

奇跡講座/中央アート出版社


そういったことをコースの学びと実践を通して認識していくことが、私たちに求められていることだといえます。

それによって、たしかにコースはハードな霊性の道であるとしても、地道にコース形而上学を学んでそして実践していくしかないというモチベーションが高められていくことになるといえます。

いわゆる、コースを学んでいくことの必要性と重要性をますます理解するようになるだけでなく、その道筋(階梯)も見えてくるようになっていくということです。

そう、その道筋(階梯)が見えるからこそ、たとえそれがハードな道であろうと、地道な学びと実践をしてコースを修得していこうとなるわけです。

その道筋(階梯)がより明確にはっきりと見えてくるならば、むしろ、その歩みは軽やかなものになっていきます。

なぜなら、学びが進めば進むほど、実相世界への階梯がより明確に見えてくるようになるわけですから。

そのためにはやはりコース形而上学を繰り返し学んでいくことが重要です。

もっといえば、ワプニック博士が解説するコース形而上学を理解していくならば、実相世界への階梯が見えてくるようになるでしょう。

逆に、実相世界への学びの階梯を見つけることなく、階梯の一番下でコースを何年、何十年と学んでいる無益な旅をしている学習者がたくさんおられるということも知っておくと良いでしょう。


光から遠ざかるような無益な旅に出かけたい誘惑にかられるときはいつでも、自分が何を本当に望んでいるかを思い出し、次のように言いなさい。
聖霊は私をキリストへ導く。そして私はそれ以外のどこへ行きたいだろう。キリストの中で目覚めることの他に、私にどんな必要があるだろう。(T-13.Ⅶ.14)

奇跡講座/中央アート出版社


コースをせっかく学んでいるのですから、何年、何十年というコース学習の人生が無益な旅になってしまわないようにしたいものです。


この世界は死によって去るのではなく真理によって去るのである。(T-3Ⅶ.6:11)

奇跡講座/中央アート出版社


この世界を死によって去るのではなく、真理によって去りたいものです。

そのために私たちはコースを学んでいるのであり、私たちはそれを目的にコースを実践しているのだということを忘れないようにしましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?