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奇跡を行うにあたっての礎となる概念


コースを通して何を学んでいくのか?

コース(奇跡のコース/奇跡講座)を通して私たちは何を学んでいくのか?

というなら、

それは奇跡の第一原理である「奇跡に難しさの序列はない」という概念に基づいた知覚の仕方ついて学んでいると言うことができるでしょう。

奇跡に難しさの序列はない」という奇跡の第一原理は、聖霊の思考体系、いわゆる一元的な思考体系の礎となる概念です。

それは、必ず理解され、そして修得されなければならないものであるわけです。

ワプニック博士もこう云っています。
奇跡に難しさの序列はないという奇跡の第一原理を完全に修得したなら、もうコースの学びは修了したと言っていいでしょう」と。

「奇跡に難しさの序列はない」ということが何を意味するのか?

というと、

「この世界のどれもが等しく全一に幻想である」ということです。

つまり、イエス、聖霊は、まさにそのような見方、考え方をしているということです。

私たちはコースを通してその見方、考え方を学んでいるのであり、そして最終的には完全に修得(マスター)していくことがコース学習者である私たちが目指しているものであるわけです。

なにせ、今私たちは、自分自身を観察すれば分かりますが、「すべてが全一に同じ」というふうに見てはいません。

それどころか、序列、差異、優劣ばかりを見ています。

それによって、肉眼で見ているこの世界にくぎ付けになっており、しかもそれをまったく疑うこともなく信じています。

たとえ知的にコースの教えを理解していたとしても、実際のところ、「奇跡に難しさの序列はない」という教えなどまったく信じていないことが自覚されるわけです。

つまり、私たちはコースの思考体系を信じていないどころか、むしろ、コースの思考体系を拒絶(否定)しているのが自覚できるわけです。

それがいけないということではなく、コースの学びと実践はそこから始まるのだということを知っておきましょう。


私たちがこの世界で知覚しているものとは

コースが教えている内容は、肉眼で知覚しているこの世界のどれもが幻想であるというものです。

どれもが幻想であるなら、幻想の中に序列などあり得ないわけです。

でも、コース学習者はそういうことを学んでいるにもかかわらず、私たちはそのようにはまったく見てはおらず、むしろ、そこに差異、相違、序列を知覚しているわけです。

すべてがバラバラに、別々に、独立して存在している、そしてこの世界は実在している、と信じているわけです。

それが何を意味するかというと、それこそが、分離の想念を反映した知覚の仕方なのだということです。

いわゆる、私たちはすでに心の中で「分離は起きた」と信じており、そして、それを外側の世界に「投影」しているということです。

そう、私たちはこの世界の夢を使って何をしているのか?というと、

その真実は、「分離の想念」を外側に投影した形象(イメージ/映像)を見ているだけなのだということです。

そのことについて、コースでも以下のように述べています。

投影が知覚を作り出す。 あなたに見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものではない。 しかし、それ以上でないとはいえ、それ以下でもない。したがって、あなたにとって、それは重要である。 それはあなたの心の状態を証するものであり、内的状況の外的映像である。 人はその心に思うごとく知覚する。(T-21.In.1:1-6)

奇跡講座/中央アート出版社

ここで述べられている「内的状況」とは、分離の想念(自我の思考体系)を信じている状態のことを言います。

それは、間違った心の状態とも言ったり、あるいは、自我を教師としている状態とも言ったりします。

そう、私たちは今そのような状態にあるわけですが、まずは、そのことを認識していくところから、コースの実践ははじまるといえます。

というのも、それは認識されていくことで、訂正が可能となるわけです。

その訂正はどのようになされていくのか?というと、「ちがう見方、別の見方で見たい」としていくのであり、つまり、自分の見方(知覚)に対して疑問視していくことによってなされるといえます。

言い換えるなら、それが「自我を教師とするのをやめる」ということであり、「自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直す」という実践なのだということです。


価値判断のない知覚の仕方を修得する

私たちがコースの実践を通して必ず修得しなければならないものこそ、「奇跡に難しさの序列はない」という概念に基づいた知覚の仕方なわけです。

この世界のすべてを「同じ」として知覚するようになっていくことを目指しているということです。

どんなものであっても、すべてが同じとして見えるなら、そこにはもちろん価値判断(ジャッジメント)というものがないということです。

つまりは、コース学習者の私たちは価値判断(ジャッジメント)のない知覚の仕方を修得しているということです。

価値判断のない知覚の仕方こそが、「あるがままに見る」ということであり、それが聖霊(イエス)が見ている見方であるわけです。

なにせ、(今の)自分たちはすべてに価値判断しながら知覚しているわけで、そうであるなら、そのような知覚になっていくように訓練していくしかないわけです。

そして、その訓練が、(心に戻って、)聖霊の視点から見る、つまり聖霊と共に見る、という「赦しの実践」なのだということです。

ようするに、

コースで何を学ぶのか?

といういならば、

イエス、聖霊が見ているように知覚するようになることを目的としているのであり、それを自分のものにしていくために、それを完全に修得していくために、私たちはコースを学んでいるのだということです。

聖霊にとっては、奇跡に難しさの序列はない。このことは、今ではあなたにとって充分に聞きなれたものとなっているが、まだ信じられるものとなってはいない。したがって、あなたはそれを理解せず、それを使うことができない。私たちは神の国のために実に多くのことを達成しなければならないのだから、この決定的に重要な概念を忘れるわけにはいかない。それは、私が教えている思考体系であると同時にあなたにも教えてもらいたい思考体系の、真の礎石となる概念である。あなたはそれを信じることなく奇跡を行うことはできない。(T-6.Ⅴ-A.4:1-6)

奇跡講座/中央アート出版社

つまり、「奇跡に難しさの序列はない」という奇跡の第一原理を完全に理解し、完全に修得していくために、私たちはコースを学んでいるのだということです。

だからこそ、その概念はテキストの冒頭に奇跡の第一原理として述べられているわけです。

何度も申しますが、その概念は、奇跡を行っていくうえでその礎(土台)となる概念なのだということを忘れずにいましょう。


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