見出し画像

ア・コース・イン・ミラクルズはニューエイジのスピリチュアリティと何が異なるのか?


他のスピリチュアリティとコースのちがい

「私たちは愛なのです。私たちは神です。私たちは一つです。」

そのことは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)をちょっとかじったものであるならば、誰だって知的には知っていることです。

もっといえば、コースでなくても、他のスピリチュアリティでも教えられていることです。

ただ、コースの教えをちゃんと理解していくならば、コースはそのようなことを学んでいくようなスピリチュアリティ(霊性の道)ではないと分かります。

その学びが深まっていくとき、コースが他のスピリチュアリティとはまったく異なるスピリチュアリティであるということがもっとはっきりと分かっていくことになります。

むしろ、他のスピリチュアリティとはまるで真逆のアプローチをしていく霊性の道だということが分かるようになります。

いわゆる、コースは、神について、愛について、真理について学んでいくようなものではありませんし、その実践においてもそれらを追求していくようなものではないということです。

しかしながら、コースの教えがそういうものだとは知らずに、まったくちがったふうにコースを学び、そしてコースを実践しているケースがよくあります。

だからこそ、私たちはコースの形而上学をしっかり学び、理解していく必要があるわけです。

コース学習者の私たちは、神や愛を妨げている「障壁」(自我/幻想)に重点を置いて学んでいきますし、その実践においても、その「障壁」のほうにフォーカスをしていくということです。

コースの学びと実践に関して、そのようなことを明確に理解していくことはとても重要です。

そうでないなら、歪曲したコースの学びと実践になりかねないということです。


神や愛や真理ではないものにフォーカスしていく

コースの学びと実践において、私たちがよく勘違いしてしまいがちなのが、神、愛、聖霊、光、といったものにフォーカスしていきがちになるということです。

それは、ほとんどのコース学習者がやってしまうことだといえましょう。

しかし、コースが教えていることをしっかりと理解するようになるならば、私たちがフォーカスしていくべきものとは、自我、闇、幻想といったもののほうだということが分かってきます。

私たちが知っておくべきことは、私たちは神や愛や真理について理解することなどできないのだということです。

というのも、今や私たちは自我になってしまっているからです。

私たちは、何も分かっていないわけです。

ただし、そんな私たちにもできることがあると、コースは教えてくれています。

それは、神や愛や真理ではないものについては分かることができるのだということです。

だからこそ、神や愛や真理ではないものにフォーカスしていくこと、見つけ出していくことが、私たちに求められているわけです。

つまり、私たちがしていくことは、虚偽を虚偽としていくことなのです。

そして、それを「奇跡」と呼んでいます。


奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W.pII.13.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちがしていかなければならないのは、神、愛、真理ではないもののほうを正視(直視)していくことなのです。

その実践は、けっして神、愛、真理を追い求めていくようなものではないということです。

それは、自我となってしまっているこの「自分」が、神、愛、真理に目覚めるのではないということを意味します。

そう、その「自分」がいくら神や愛や真理を探し求めていったとしてもけっして見つかることはありません。

この「自分」も非実在なわけです。

無です。

ですから、コースが教えていることを理解するようになるならば、このコースは、個別の自己(self)の非実在性、無意味性、無価値性を受け入れていく霊性の道だと分かってくることでしょう。

そして、自分だと信じているこの「自分」も幻想であり、外側に見えているこの「世界」も幻想なのです。

コースのイエスが教えているのは、そういうことです。

それこそが非二元(一元論)の教えであるということを知っておきましょう。


コースの学びと実践が歪曲したものにならないように

コースの学びと実践において私たちがもっとも歪曲しがちなのが、この世界の形態レベルのことについて聖霊やイエスに頼ろうとすることだといえましょう。

その最たるが、この世界でどのように行動すればいいのかについて、聖霊(イエス)にガイダンスを求めたりすることです。

そのようにして、聖霊(イエス)をこの幻想世界の中に引きずり込もうとするわけです。

ようするに、この世界に居ながら、この世界の中で、幸せや平安になろうとするということです。

コースでは、この外側に見えている「世界」のことについて、「この世界は神や愛や真理に対抗して妄想によって作り出された幻想である」と教えてくれています。

そのことについて、ワプニック博士は以下のように述べています。


”奇跡のコースの理論は、非二元的な形而上学に基づいています。それは、物理的な宇宙(身体を含む)が神によって創造されたものではなく、実際には神への攻撃として作り出されたことを教えています。”

 ーFACIMサイトのワプニック博士の言葉よりー


神への攻撃として作り出された世界を私たちは知覚しているわけです。

コースが教えていることを理解するようになるならば、この世界の中に愛や光や希望などないのは明らかです。

もちろん、この世界の中に、イエスも聖霊もいるわけがありません。

ましてや、イエス、聖霊は、この世界は実在しない幻想でしかないと見ているわけです。

そう、イエス、聖霊は、この世界(幻想)の外にいるのであって、「この世界はない、無である」ということを知っているわけで、ずっとそのことを私たちに教えてくれているだけです。

ですから、幻想の中のことについて、つまり、この世界の中のことについて、あぁしなさい、こうしなさいと云ってくるわけがありません。

イエス、聖霊の目的は、この「世界」は幻想であり、私たちはこの「世界」の中にはいないということを思い出させることだけが目的なのですから。

にもかかわらず、なぜ、私たちは愛を、神を、そしてイエス、聖霊を、この幻想世界に引き込もう、持ち込もうとするのでしょう?

愛のない場所で、神のいない場所で、

「すべてが愛です。すべてが神です。」

というような言葉を唱えたところでどうなるというのでしょう。

一時的な気休めにしかならないようなスピリチュアルな美辞麗句の言葉にいつまで私たちは騙され続けるつもりでなのでしょう?

「探せよ、されど見つけることなかれ」というゲームをいつまで続けるつもりなのでしょう?

いつまで天国を拒絶して、妄想世界の中で「覚醒ゲーム」「悟りゲーム」をし続けるつもりなのでしょう?

二元性の幻想世界での遊び(スピリチュアル・ジャーニー)を終わりにしたいのであるならば、私たちは「ここには何もない、自分はここにはいない」ということを学ぶ以外にありません。

イエス、聖霊は、この世界についてどのように見ているか?というなら、まさにそのように見ているということです。

「ここには何もありません。私もいません。あなたもいません。無です」というふうに見ているわけで、

ようするに、私たちはそのような見方(知覚の仕方)をコースを通して学んでいるのだということです。

「私たちは愛です、神です、一つです」 というようなことをいくら知的に学んだとて、この世界から目覚めれるわけではないということです。

コースの学びと実践はそういうものではないということを知っておきましょう。

コース学習者の私たちに求められているのは、幻想を直視していくことなのだということです。

幻想であるこの世界を無であると知覚するようになるとき、私たちはこの世界を看過して知覚するようになります。

そのとき、そこにただ在り続けているものが知覚されるようになっていきます。

それが、「愛の臨在」です。

コース(ア・コース・イン・ミラクルズ)にはその知覚を思い出すための具体的な実践方法が示されています。

その実践は、愛や光を探し求めていくのではなく、愛ではないもの(自我/闇)を通り抜けて(看過して)いくことなのです。

すでにそこに在り続けるものを妨げている障壁を取り消していく霊性の道なのだということです。

そう、私たちがその形而上学ついてしっかり理解していくならば、コースはニューエイジのスピリチュアリティとは異なるものだとはっきりと分かることでしょう。



参考記事:なぜコースはニューエイジのスピリチュアリティと異なるのか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?