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自分は何のためにここにいるのか?本当にすべきことは何なのか?


時間と宿命の奴隷から自由になる

人生にはすべきことがたくさんあるかのように見えます。

たしかに、この世界(形態レベル)においてはそうです。

この世界の中において、何もする必要はないということはあり得ず、この世界で生きるためにすべきことが次から次へとやってきます。

そのようにして、私たちは時間と宿命の奴隷になっていると言うことができます。

でも、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる私たちはその奴隷状態から解放されることを目指しているのだといえます。

この世界の夢から目覚めていきたいのであるならば、

自分は何のためにここにいるのか?

コースの学びを通してその目的をしっかりと見定めていく必要があります。

そう、コースの学びが深まっていっていくとき、コースの思考体系が根付いていくとき、ここ(この世界)で自分が本当にすべきことは何か?をしっかり自覚/認識するようになっていくといえます。

いわゆる、自分の唯一の機能を忘れないようになるということです。

この人生のすべてを赦しのレッスンの場である「教室」として捉えるようになります。

そのレッスンをしていくこと以外にこの世界ですべきことなど何もないのだということを学んでいくのが、私たちの学ぶべきことだといえるでしょう。

もちろん、コースの学びが深まっていくにつれて、それを訓練している自分とは誰なのか?を自覚/認識するようになっていきます。

それは、真のアイデンティティーが思い出されていくことを意味します。

コースが正しく学ばれ、正しく実践されていくならば、必ずそうなっていきます。

そうなっていかないわけがありません。

もしそうなっていっていないとしたなら、コースが正しく学ばれていない、あるいは、正しく実践されていない以外の何ものでもありません。

真のアイデンティティーが自覚/認識されていくならば、この世界の夢がどういうものなのか?も明らかになっていきます。

奇跡か?殺害か?

愛か?殺害か?

自分がその選択肢にいることが明瞭になっていくならば、どちらを選択するか?は明らかです。


”神の愛に支えられていながら、奇跡か殺害かの選択を難しく思うものがいるだろうか。”(T-23.Ⅳ.9:8)

奇跡講座/中央アート出版社


この世界がどういうものか?
この世界にいる私たちが何をしているのか?

そういうことが分かってくるならば、当然、「赦し」の実践こそが、人生における最も重要な項目になっていくにちがいありません。

コースを学ぶということは、その「赦し」について学んでいるのだということを私たちは覚えておかなければなりません。

その「赦し」が当たり前になるまで、つまり「赦し」が修得されるまで、私たちはコースを学び、実践していく必要があるということです。


私には自分が付くべき持ち場、私だけの役目がある。私が自ら選択してこの役目を担うときまで、救済は待ち続ける。この選択をするまでは、私は時間と宿命の奴隷である。(W-pⅡ.317.1:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの学びが深化していくとき、私たちは「赦し」をこの世界における唯一の自分の役割として受け入れはじめることになるということです。

逆に言い換えるなら、そうなっていかないかぎり、私たちはずっと時間と宿命の奴隷となったままであることも覚えておきましょう。


自分に定められた道に従う

コースという霊性の道は、いわゆる他のスピリチュアリティのように神とか愛とか光にフォーカスしていくようなものではないということを知っておかなければなりません。

そうではなく、神とか愛とか光を邪魔している障壁となるもののほうを見つけ出して(正視して)いくことがコースの実践なのだということです。

いわゆる、自我にフォーカスしていくわけです。

私たちは自我(幻想)を直視し、そして自我を取り消していくことをしていくことが求められているのだということです。

ただし、その実践は自我(幻想)をただむやみに否定していくようなものではないということも私たちは知っておかなければなりません。

自我(幻想)を、聖霊(正しい心)の視点から直視していくことが、私たちには求められているのです。

そこから自我を、そして、自我の思考体系が作り出したすべてを見るとき、そのすべてが虚偽であるということが明らかになります。

それが「赦し」と呼んでいるものです。

愛を阻む障壁」を取り消すということが、そういうことです。

愛を阻む障壁」を取り消していくことが、コースが他の一元論(非二元)のスピリチュアリティと比べて異なるところであり、それこそがコースのもっともの特徴的なところだと言うことができます。

障壁が取り消されていくことによって、私たちはますます愛に触れる体験をしていくことになります。

そうなっていくとき、自分のこの霊性の道の歩みは確かなものであり、その目的地は確実であると確信するようになっていきます。

自分は何のためにここにいるのか?本当にすべきことは何なのか?

そのことがますます自覚されていくからです。

そのようにして、自分に定められた道にもっとさらに従うようになっていくといえましょう。


”父の計画が私に定めた道を自ら喜びを抱いて進むとき、救済がすでにここあることを認識する。それはすでに私自身のものであると同時に、私の兄弟の全員に与えらている。”(W-pⅡ.317.1:4)

奇跡講座/中央アート出版社


それは、手本を示す、という生き方となっていくといえます。

それは、神の教師としての歩みはじめるということです。

そして、それがコースの実践者にとっての役割であり、唯一の機能であるということを覚えておきましょう。


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