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赦しは知的に学ばれるものではなく、実践を通して体験的に学ばれていくもの

形而上学の知的理解と実際の体験的理解が出会うとき

形而上学の知的理解と実際の体験的理解が出会うとき。

それが「赦し」です。

ワプニック博士は、そう云います。

それが何を意味するのか?

というなら、「赦し」は形而上学の知的な理解がなければあり得ないのと同時に、日々において実践として適用されなければ「赦し」は学ばれないということです。

それは、学術的に形而上学の理解を深めていくことも、そして実践でその理解を深めて根付かせていくことも、その両方が不可欠であるということです。

形而上学とは何か?

というなら、正しく見る、正しく考える、正しく知覚するための基盤となるものだといえます。

それを自分自身に根付かせていくためには、それがどういうものであるか?についてまず知的にしっかり理解していくことが私たちに求められているということです。

そして「赦し」は、ハウツーといったような技巧的やり方、テクニックというものでもないということです。

コース学習者の私たちは「赦し」というものについて、ついそのやり方、テクニックにフォーカスしてしまいがちです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践をしていく上で覚えておかなければならないのは、「赦し」は実践の中で学ばれて、そして修得されていくものであるということです。

それには学びと訓練を要するということ、そして、プロセス(過程)というものがあるということです。

形而上学的な教えだけをいくら学んだとしても「赦し」が分かるわけではありません。

それは実践していかなければ、けっして学ばれていくことはないということです。

日々、日常に適用していくこと、それが実践です。

それは、まったく新しい知覚の仕方をもたらしてくれるわけですが、その知覚は、じつのところ、私たちが古き昔に自ら忘れ去ってしまったものでもあるわけです。

その本来の自然な知覚を思い出していくための訓練が「赦し」なのです。

それはハウツー(やり方/技法)なのではないということをしっかりわきまえておきましょう。

それは、たしかに修得(マスター)しなければならないものではありますが、そうしたほうがいいからというものではなく、もともとの知覚にただ戻すだけなのです。

その手段が「赦し」なわけです。

私たちは愛というものを知ることはないわけですが、愛をこの幻想世界に反映したものが「赦し」なのだということを覚えておくと良いでしょう。

「赦し」は知的に学ばれるものではなく、実践の中で体験的に学ばれていくものであるということです。

コースの形而上学と実際の実践が出会うとき、それは私たちが忘れていた愛に触れることのできる瞬間でもあります。

その「赦し」の瞬間を、常に、今この瞬間に思い出せるように。

毎瞬毎瞬が、そうであるように。

私たちは「赦し」の実践を通して、それを修得しているのです。


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