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幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない


自我の策略は、直視させないこと

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が他のスピリチュアリティと比べてちがう大きな特徴は、その実践におけるフォーカスしていく方向がまさにまったく真逆なところだといえましょう。

つまり、コースの実践は、真理ではなく幻想のほうに、光のほうではなく闇のほうに、愛ではなく自我のほうにフォーカスしていくということです。

コースにおける実践は、愛や光といったものにフォーカスしていくのではないということです。

その実践は、むしろ光や愛を遮っている障壁のほうにファーカスしていくことなのだということをしっかりと理解しておきましょう。

要は、自我(障壁)を見つけ出していくことが、コースの実践で私たちがしていくことなわけです。

そして、それによって自我(障壁)は取り消されていくわけです。

当然、自我(障壁)を認識しないならば、それが取り消されるということもけっしてあり得ないということです。

コースが、取り消し(Undoing/Unlearning)の道と呼ばれる所以がそういうことなのだということです。

コース学習者にとって、そのことはとても重要なことであるにもかかわらず、実際のところ、そのことがなかなか理解されにくいのが現状だといえましょう。

それというのも、そこには理由があるのです。

私たち(自我)は、核心に触れたくないのです。

核心に目を向けたくないのです。

真の原因を無自覚なままにして、隠しておきたいのです。

というのも、もし真の原因を直視したならば、それが虚偽であると分かってしまうからです。

自我はそうなることをとても恐れているわけです。

なので、自我は直視させないように、代替(ニセモノ)の愛や光のほうにフォーカスさせようとするということです。

私たちはそのような自我の力動によって、認識されていない無意識のレベルにおいて突き動かされています。

だからこそ、私たちはそのことを認識していく(直視していく)ことが求められているのです。

そう、そのためにはコースの思考体系というものをしっかり学び、理解していくことが必須だということです。

コースの思考体系が繰り返し学ばれることによって、その思考体系が根付いていくことになり、そうなっていくにつれて日々の実践の中で自我の力動に気づけるようになっていきます。

つまりそのようにして私たちは自我から解放され、自由になっていくのだということを知っておくと良いでしょう。


不当に扱われたいと自ら願望している

自分の内側を直視していくならば、つまり、自分に正直になっていくならば、私たちはいつも自我を教師として選択していることを自覚/認識することができます。

それがどういうことか?

というなら、私たちは、毎瞬、愛を拒絶しているということです。

私たちは、毎瞬、愛とは真逆の不当に扱われることを自ら願望しているということです。

そのことを認識していくことは、とても重要です。

なぜなら、そのことを認識し、認めていくとき、自分はこの世界の被害者ではないことが体験的に自覚されていくからです。


私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-pⅠ.31)

奇跡講座/中央アート出版社


自分はこの世界の被害者ではなく、「すべてが自分で自分に行っているだけである」(T-27.Ⅷ.10:1)ということを思い出すならば、私たちは自分が体験していることのすべてを滑稽なストーリーとして見ることができます。

すべてが虚偽だと知覚され、平安と共に見ることができます。

それをコースでは「ヴィジョン」と呼んでおり、私たちはコースの実践を通してそのヴィジョンを修得していっているのだと言うことができます。

ちなみに、そこから見るとき、コースではその視座を「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)と呼んでいます。

そこは、夢の外(時空の外)であり、「いまここ」と呼ばれています。

そう、そこが私たちが元々と居る場所だったと思い出していくわけです。

そこから見るとき、すべてが「無」(虚偽/嘘)だと分かります。

そして、自分は「無」であるものに対して一喜一憂(動揺)していただけだったと分かります。

そのようにして自我(虚偽/幻想)はそのパワーを失っていき、取り消されていくことになります。

それが、コースでいうところの「赦し」というものです。

でも、私たちが赦しを実践していく上で知っておかなければならないのは、私たち(自我)は真実が明らかになることを、つまり「すべてが虚偽である」ことが明らかになることを、むしろとても恐れているのだということです。

自我はその真実が明らかにならないように、無自覚なままにしておきたいがゆえに、あらゆる手段を使って抵抗するわけです。

ようするに、自我と同一化してしまっている私たちは、内側に戻っていかないように、内側を直視しないように、突き動かされてしまうわけです。

それでも、自我の防衛メカニズムについてしっかり理解するようになるならば、その自我(の力動)に気づいていくことができるようになります。

自我を直視していくことができるようになっていきます。

いうなれば、私たちはそうなっていくために、「自我」について、そして、「自我の力動論」について、コースを学んでいるのだといえます。

コースが教えていることをちゃんと学んでいくならば、そして理解していくならば、私たちがこの世界の夢の中で何をしているか?がはっきりと自覚できるようになっていきます。

私たちは、自分が見ている世界の被害者ではありません。

それどころか、自分は無力な被害者だと信じ込ませるために、じつは、不当に扱われたいと自ら願望しているのです。

そういうことを認識していくことが、私たちに求められているのです。

つまりは、「自我を直視する」ことが求められているということです。

取り消し(Undoing/Unlearning)は、それによってなされるのです。

言い換えるなら、自我を直視していかないかぎり、その取り消しはけっしてなされないということです。


幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。 見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。(T-11.5.1)

奇跡講座/中央アート出版社


幻想から自由になるためには、幻想を直視していかねばならないということです。

つまり、自我から自由になるためには、自我を知り尽くし、自我を理解していかななければならないということです。

コース学習者の私たちがしていく実践とはそういうものであるということを覚えておきましょう。


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