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赦しがやり方やテクニックといったものになってしわないように

「赦し」の目的と手段について

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者である私たちは、その実践として「赦し」をしていくわけです。

ただし、「赦し」といっても、

赦しとは何なのか?
赦しとはどういうものなのか?

その形而上学的な理解の土台がなければ、「赦し」の実践もあり得ません。

さらにいえば、赦しのやり方やテクニックをいくら学んでいったとしても、そもそもが何のための実践なのかが見当ちがいなものになってしまうならば、何の意味もありません。

もしコースの実践がそのようなやり方、テクニックといったものになってしまうなら、もはや、それはコースではなくなってしまうということです。

そうならないためにも、コースというものがどのようなスピリチュアリティなのかしっかり理解しておく必要があるわけです。

どのような考え方で「赦し」をしていくのか?
何のために「赦し」をしていくのか?

その「赦し」について学んでいるのが、コースの学びだと言うことができます。

私たちが本当に学ぶべきものとは、

聖霊はどの視点から?
どのように知覚しているのか?

というものであり、

さらには、その知覚を修得していくのがコース学習者の私たちが目標としているものであるわけです。

つまり、コース形而上学はコースの実践をしていくための土台となるものであるわけです。

だからこそ、コースの形而上学(理論)を徹底的に理解していくだけでなく、根付かせていくことが必須なのだということです。

実際に、コース形而上学に基づいた実践をしていくならば、「赦し」の視点、つまり、聖霊が見ている視点が思い出されていきます。

そして、その視点においてのみ、真の赦し(全一的な赦し)はなされる、ということも分かってきます。

聖霊の視点へと戻っていく訓練を重ねていくことによって、やがて「赦し」とは何かをもっと理解するようになり、ただそこから聖霊と共に「見る」だけということがその実践になっていくといえます。


赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。 (W-pII.1.4:1)

奇跡講座/中央アート出版社


このコースは、

この世界は実在しない、この肉体も実在しない、この自分も実在しない、

そして、

神からの分離は起きていない、

ということを知っている聖霊(正しい心)と同一化していく道だと言うことができます。

これは、正しい心(正気)の思考体系を修得(マスター)していく道であり、つまりは、正しい心(正気)を思い出していく道なのだということです。

それが私たちの目的であり、そのための手段が「赦し」なわけです。

その「赦し」について、私たちは知的理解だけでなく、実践を通して体験的に学んでいく必要があるということです。

いわゆる、「赦し」を完全に修得することによって、それは成し遂げられるということです。


だからあなたは何もせずにいなさい。そして何を為すべきかは、聖霊による赦しを通して、教えてもらいなさい。(W-pII.1.5:1)

奇跡講座/中央アート出版社


結論からいえば、

コース形而上学を学んでいくこと、
そして、その理解を深めていくこと、
そして最終的には、それが完全に修得されるまで、

それは繰り返し学ばれるべきものであるということです。

そこに近道はありません。

そして、それは学びと訓練(実践)の両方が伴わなければなりません。

もしそのどちらかが欠けるならば、やり方やテクニックといったものになってしまいかねません。

もし「赦し」のやり方、テクニックといったものになってしまうなら、もはや、コースを学んでいくことはできなくなるでしょう。

地道にでも、コースの形而上学を学んでいくこと、そして、実践に応用していくこと、それが一番の近道であると言えるでしょう。

その歩みは一足飛びに達成されるというものではなく、学びと訓練(修練)の積み重ねによってでしか成し遂げられないのだということを覚えておかなければなりません。


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