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私たちがこの幻想世界の中にいるのは、この幻想世界から目覚めることを恐れているから

私たちは、なぜこの幻想世界の中にいるのか?

私たちは、なぜこの幻想世界の夢を見続けているのか?

というなら、単純に、実相(リアリティ)を恐れているからです。

実相(リアリティ)よりもこの幻想世界(夢)のほうを見ていたいからであり、言い換えるなら、この世界の夢から目覚めることを恐れているからです。

要は、私たちは真理を恐れているということです。

私たちは神の愛を恐れているということです。

その恐れがないならば、この幻想世界よりも実相世界を知覚しているはずで、もはやこの幻想世界の中にはいないといえます。

私たちは誰もが皆、「自分はこの世界に(存在して)いる」と信じているわけですが、この世界の中に居るということ自体が、つまりはそういうことなわけです。

にもかかわらず、そんな私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びを通して、神の愛のもとに帰ろうと試みているわけです。

それが意味するのは、私たちにとって目覚めていくことは一筋縄では行かないということです。

そのことについて、ワプニック博士は以下のように述べています。


私たちは愛への恐れが強すぎて、一足とびに天国に飛び込むのは無理なことです。その代わり、忍耐強い教師のもとで、自分たちが恐れることなく受け入れられるペースで段階的に学んでいく事が必要です。そのようにして私たちの対立や葛藤の世界が、少しずつ、神の子が平等に知覚される世界へと変容していくのです。

ー『Journey through the Text of A Course in Miracles』ワプニック博士の講話よりー


私たちは神の愛を恐れていて、それゆえ、私たちはその恐れを外側のこの世界に投影し続けているわけです。

いうなれば、この世界はその恐れで作られているということです。

この世界は恐れが土台となって作られているということです。

ですから、平安でいられないのは当然なわけです。

この世界の中では、まるで心休まることがありません。

この世界は問題だらけ、トラブルだらけ、です。

それをコースでは、戦場、地獄というふに表現しています。

コースのイエスが教えている通りに見るならば、この世界の夢はとうていまともな世界ではないことが分かります。

それだけを見るなら、まさに絶望しかありません。

でも、コースでは、それらすべてが自分ででっち上げた幻想でしかないと見ることのできる視点があるのだと教えてくれています。

その視点を、コースでは「戦場を超えたところ」「聖霊の視点」「赦しの視点」と呼んでいます。

ただし、私たちは、その視点があるのだということ、そしてそこから見ることができるのだということを、まったく忘れてしまっています。

その視点がどこにあるのか?もまったく忘れてしまっています。

ようするに、本当の自分(真の自己)はその視点からこの夢(幻想世界)を見ているだけということを思い出すことが、私たちに求められているということです。

ただし、コースの学びは一足飛びにはいかないことも知っておく必要があります。

なぜなら、私たちはこの夢から目覚めることを、つまり、神の愛をとても恐れているからです。

ですから、その恐れを取り消して(訂正して)いくことを、私たちはしていかなければならないのです。

その具体的な実践方法が、「赦し」です。

コースは、その「赦し」について教えてくれているのであり、私たちはそのためにコースの思考体系(形而上学)を学んでいるのだといえます。

どのような考え方で、どのような見方で、どのような実践をしていけばいいのか?

私たちは、それ(正しい心/正気)をまったく忘れてしまったのです。

だからこそ、私たちはそれを学ぶ必要があるのです。

さらにいうと、本当に目覚めていきたいのであるのならば、それは完全に修得されなければならないということを心に留めておきましょう。


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