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できない恥ずかしさ/末吉 愛

お読みくださり、ありがとうございます。
ACIMヴェリテの末吉愛です。

先日、ある人からのメールを読んだとき、その文章が何を表しているのか全くわからず(言葉の意味がわからないわけではなく、言葉の奥にあるものが何かある気がしたけれど、それが何なのか、判然としなかったのです)、内なるガイドに祈った、ということがありました(自分で勝手に意味付けしたくはないし、これもまたやはり“癒し”の贈り物を受け取る機会として経験したかったのです)。

祈って“お任せ”して過ごしていると、家事をしているときに不意に、小学生のときのことが思い出されてきました。もうずっと昔のことで、忘れていたことでした。

 
わたしは運動が苦手で、二重跳びも逆上がりもできたことがありませんでした。球技のときや運動会の練習以外のときの体育の授業が嫌で、重たい気持ちになっていたことを思い出したのです。

特に嫌だったのは鉄棒。何列かに整列し、幾つかある鉄棒に数人の児童が並び、先生の号令に合わせて一斉に前回りや逆上がりをするのですが、逆上がりのときはわたしはできないので、他の列の、三角座りして順番を待っているクラスメイトたちに、その姿を見られてしまうことがたまらなく恥ずかしく、情けなく、辛かったのでした。

なぜか、その頃のことを思い出したのです。そして、「みんなはできるのに、自分はできない」ということが、そしてそれをみんなも知っているということが、どんなに悲しかったか、どんなに情けなくて恥ずかしく思ったか、という、その気持ち——もうすっかり忘れてしまっていたので、今となっては同じ感覚にはなれないにしても、その当時の辛さ——を思い出したとき、メールを送ってくれたその人の、何か訴えのようなものにやっと気づけたような気がしました。

  
今のわたしには、「できない恥ずかしさ」というものは“過ぎ去ったもの”になっているけれども、小学3年生の当時のわたしに救いはなかったんだろうかと振り返ってみてすぐに思い出したのは、友達の存在でした。

どういう経緯でそうなったのかは覚えていませんが、放課後に親しくしていたクラスメイトと一緒に、二重跳びや逆上がりの練習をしていたのです。わたしと同じく、どちらもできない女の子と、どちらもできる女の子の3人で。

どちらもできるMちゃんは、家の方向が同じで毎日一緒に登下校している、幼稚園のときからの友達です。二重跳びどころかあや跳びもできなかったわたしとTちゃんに付き添ってくれていました。どうやったら、あや跳びができるのかを教えてくれて、わたしたちはできるようになりました。

二重跳びと逆上がりは、4年生になってもできませんでした。それでもわたしもTちゃんも救われていました。「できない」ということは、問題にはなっていなかったから。「できない」ことが、3人の心を繋げてくれたから。


「できない恥ずかしさ」、と、まとめて言うここに、ごまかしがあります。「できない」と「恥ずかしい」は、別物であって、本来結びつきようがないのです。苦しくなるのは、この2つを結びつけてしまったから。

「できない」と「恥ずかしい」も、「できない」と「情けない」も、結びつきません。「できない」に、意味はないのです。

二重跳びができない。逆上がりができない。登り棒で1センチも登れない。雲梯で反対側まで行かれない。暗算ができない(指を折って数えてもよく間違える)。キャベツの千切りができない(これは千切りじゃない、百切り・・いや、十切りだな、などと思ってしまうほどひどい——ちなみにもとは「千」ではなく「繊」なのだそう)。全部今もわたしができないことです。

できないからってなんなのでしょう。「できない」と闘うか、「できない」を赦しの道具にしてもらうか。どちらかしかないのです。そして、どんな「できない」においても、そこに必ず贈り物があるので、贈り物を——受け取る気持ちがあれば——受け取れます。

「できない」ということには、何の力もない。自分を苦しめる力など、ない。けれども、「できない」ということは——何ができないにせよ、わたしたちはすでに赦されている(自分を無価値で弱く傷つきやすい欠けた存在だと見なしている、その罪悪感、その偽りの自己像、分離の信念はすでに取り消されている)という事実を受け入れるための機会になり得ます。

コースの学びにおいてもそうです。ワークブックのレッスンに毎日取り組むことが「できない」。コースの言う“ヴィジョン”が何か知りたい、“ヴィジョン”で見たいと思うのに「できない」。価値判断をしていると気づいたらその場で聖霊を、赦しを選べばいいと分かっていてもそれが「できない」。

素晴らしい機会です。頼る機会です。助けてもらう機会です。愛される機会です。
恥ずかしいだの情けないだの言って、そのじめじめした場所に籠城し、愛を拒絶していても救われませんが、誰にだって(小学生の子供にだってあったように)必ず救いの手が差し伸べられているはずですから——これがそうなのだと気づけるよう、籠城するのをやめて心を開いておく必要がありますが——、その手を取って、助けてもらうことです。


だからわたしは、いつでも、何度でも、兄弟に手を差し伸べることができるように——手を差し伸べて、兄弟が手を取ってくださったとき、その兄弟の手がわたしにとっての救いの手、わたしの助けを求める手を取ってくださったのだといつも感じます(与えることと受け取ることは同じなのです)——、心を常に開いていたいし、いつも兄弟を祝福していたいと思っています。

メールをくれたその人にも、「わからない」・「できない」と思える状態が、奇跡の道具となって、必ず愛と癒しの贈り物を受け取ることになるということを確信しています。
そして、その人のメールを通して、遠い昔の「できない恥ずかしさ」が、真に癒えて確かに消え去り、MちゃんとTちゃんのスピリットの愛に改めて深く感謝することになったことを嬉しく感じています。メールをくれた兄弟にも心から感謝します。

世界中の「できない」に、すでに“答え”が与えられていることに感謝します。“問題が解決されていることを認識できますように”。

Blessings,

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