ざくざく詩作工房 #1

初回です!
早速投稿をいただきました(はやーい!)、ありがとうございます!
元ヤマサキ深ふゆさんのこちらの作品をご覧ください。

まず全体的な印象ですが、花のイメージやひらがなの多さから、あたたかさややわらかさを感じました。最後まで読み終わると、タイトルの意味が分かってくるのもなるほど、と思います。
では、少し細かくみていきます。

私が今 ここにいるのは
物憂げ でもなく
億劫 でもなく

この連、特に「物憂げ」のところでひっかかります。相手からの視点、物憂げな、物憂げに、と使うことが多い言葉なので、自分の状態を表すには違和感があるかもしれません。状態なら「物憂い」という言葉もありますね。

ここに来て覚えた大樹
私は名の知らない小鳥が唄う 喜びの声

ここの「私は」が浮いてしまっています。「私は」がどこにかかっているのか分かりにくい。結果的に、結ばれるイメージがあやふやになってしまって、「喜びの声」など印象的なフレーズごと宙に浮いてしまっているように感じます。もったいないです。

何処かの近くでは何かの建て直し

「何処か」なのに「近い」。続いて「何かの」と曖昧さが続くので、描写している音ごとフワフワした印象になっています。イメージはなんとなく分かるのですが、なんとなくで終わってしまう。具体的な音が続いていて印象深いので、そのまま流れを止めないでいきたいところです。

ここに いる と
ここに ある と
ここに書き綴る為に

全体を通して「ここ」という単語は重要な意味を持っていました。顕著なのがラストなのですが、場所として使われている「ここ」と記録媒体(とでも言いましょうか)としての「ここ」、指すものがちがっていそうなのに同じ「ここ」で表されていて、「『ここ』とはどこの、何のことだったのか」、分裂してしまったような印象です。場所としての「ここ」に「書き綴」っているのなら、ひとが「書き綴る」でイメージするノートや紙でなく、この場所に記録している、という描写が欲しいところです。

全体を振り返ると、読み手が描くイメージが要所要所でおぼろげになってしまい、本当に伝えたいことをようやっと取りにいく、という印象を受けます。最後まで緊張感は保たれているように感じるので、伝えたいことは筆者の中ではっきりしているのでしょう。イメージの流れや展開にも着実なものを感じます。それだけに、もったいなさがあります。

以上です。

読み手にイメージさせるのは重要なことですが、書かれたものに少しでも違和があると像が結べなくなるのです。集中も途切れます。自分が読み手になったとき、違和感を感じるのはどこか、流れが止まるところがないか、ひっかかるのはどうしてか、突き詰めていくことも必要な作業だと思っています。

それでは、#1 はこの辺で。
いかがだったでしょうか、ご自分の作品に、書き方に、活かせそうなものがあったならうれしいです。
作品も募集していますので、どうぞお気軽に書き込んでくださいね。



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