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察する習慣がない人を察すると

察することが当たり前の文化から外国人の夫を観察すると、不思議に感じることが多い。

夫が、新興国で軽自動車が日本ほど普及しないことがおかしいのでは?と言う。

私は即座に反論した。駆体や外装が弱そうだと誰からも尊重されない恐れがあるでしょう?戦闘能力が低い状態で弱肉強食の世界に放り込まれたくないのは自明だろう。結果的に序列が下がれば道を譲り続ける可能性が上がるのだから、慢性的な渋滞の中では命取りということじゃないだろうか?

一応、現地の知人も私に同意してくれた。忖度じゃなければ。

映画やドラマや小説の文脈で次のセリフはたいたい想定できるが、夫から見ると驚愕なのだという。

ただ、察する能力にも限界を感じることがある。日常で依頼のような命令のような言い方をしてくる時があって、もっとちゃんと頼めないのか私の心的に引っかかっていたので問い詰めてみたら、独り言や自問自答の類だったらしい。私から見ると、紛らわしいというか失礼な感じに受け取っていた。

モテたいとか良く思われようという意識が低く生きてきた人の場合は、家族がすぐ近くにいても独り言を言ってしまうのか!と驚かされた。

正直、恋愛ドラマや漫才などの省略された阿吽の間や連想、返しを一々説明すれば喜ばれるけれど結構疲れる。ハイコンテクスト文化は英語やプログラミングと程遠いとも聞くし。筋肉や骨格ががっちりして自信を持てる人と、華奢で元気もないタイプの人とは察する必要性にも差があるのかもしれないとも思う。

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