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呼吸のゆく末

猛烈に人に会いたい欲がむくむくと湧いてきて、どうしようもなくなるときがある。

わたしにとって同居人や家族以外の人と会うことは、大層おおごとである。周りもみんな社会人になってより、予定を繰り合わせることが難しくなった。
予定が数週間後に控えた頃、遠足を待ちわびる子どものように、その日までに必要な心づもりをチェックリストにして、心が先走りすぎて、過ごすときを勝手にイメージしている。友人が思っているよりも相当はしゃいで右往左往している。
時間を設けてくれたことに、毎度菓子折りを持っていきたいくらいで、最近は、ちいさなボトルに入ったオリーブオイルセットとか、三勺枡よりもちいさな枡で育てる苔庭キットとか、心身ともに邪魔にならない程度の贈りものを持ち歩くようになった。

しかしはしゃぎすぎだ代償に、これだけたのしみにしていたものの最終ひどく消耗する。まるきり小学生の遠足である。
そうなったら、毛布を手繰るように、まだ読めていない本たちで身を囲うように積み上げて、苔がつくまで、転がることなくただただじっとしている。

恋人と観たい映画と、ひとりで観たい映画も違うし、恋人と行きたいごはん屋さんと、友人と行きたいごはん屋さんは違う。
そのなかでも、ここのごはん屋さんは〇〇を連れていきたいし、あそこのごはん屋さんは△△を連れていったらたいそう喜んでくれるだろうな、と友人のなかでも人を選ぶ。贈りものを選ぶ感覚にも似ていると思う。ほとんど無意識に友人の顔を連想している。

「あのごはん屋さんのごはんを食べたいから、△△に会いたくなった」のか、「△△に会いたいから、あのごはん屋さんのごはんが食べたくなった」のか、自分でもいまいちわかっていない。なんにせよ勝手な話であるが、△△と行ったら間違いなくたのしい未来が見えてしまっているから、どうしても譲れない。

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”どうにもこうにもやるせない気持ちになったとき、私は文字を打っている。”

これは初めてnoteに投稿したエッセイの前書きだが、私はいまだに「やるせなさ」を動力にしか文章が書けない。
つまるところ、最近は「やるせなさ」との向き合いかたを学んできて、「やるせない」ことが減ってきたから、とうとう文章が書けなくなりそうだった。
動力が不足しているときに書く文章は、なんともつまらない。
半端に取り繕った言葉の並びがただただ連なっているだけで、まったく響かないのだ。
さてどうしたものかと少しだけ悩んでみたものだが、実生活が充実しているからこその動力不足であり、堂々巡りなのである。

ところがここ数日、どうも身が入らない。言葉の通り、宙に浮いたような感覚でいる。人と目的もなく会話がしたい。気の置けない友人とごはんを食べに行って明らかに消耗しているはずなのに、まだまだ足りない気がしてしまう。何かがおかしい。

そんなとき、何の気なしに手に取った角田光代さんの『恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。』をみてようやく、身の置きどころがわかったように感覚を取り戻した。

去年、一昨年と、100冊は当たり前に読んでいたものだが、今年に入ってから別のことに追われ、忙しさ(といっても大したことはしていない)にかこつけて十分に読書ができていなかった。
「やるべきこと」が複数あると、易々とどちらもこなせなくなってしまう。己の甘さを身にしみて感じた期間でもあった。

「あのごはん屋さんには〇〇と」、「この映画には恋人と」、そのときそのときで向き不向きがあるように、当然、ここにも当てはまることだった。
「こんな気分のときにはあの本を」。

『恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。』は、"著者と、ゆるゆると語り合っているうちに元気になれる、傑作エッセイ集"だった。
まるで、1か月ぶりに会った友人と、レモンサワー片手に串カツを食べながら話しているようなこと。商店街を歩いているときにふともわ〜んと浮かんできた話題を、「今夜、この話ぜったいしてやるぞ…!」と意気込んだものの、話してるうちに炭酸のシュワシュワに溶かし込まれて、すっかりどうでもよくなってしまうような、馬鹿みたいで、くだらなくて、もしかしたら意味もなくて、でも絶対に大事な時間。
私には、本を通して人と語り合う時間が圧倒的に足りていなかったのだ。

さらに思わぬ副産物も得た。
それは今、文章が書けていることである。
これは角田さんのエッセイをみて、(そうだよなア、レモンサワー片手に串カツ咥えてする会話がしたい気分の人は自分からそういった文章を求めてきっと出会えるだろうし、そうでない気分の人は目も通さないだけなのと同じように、書く側だって、レモンサワー片手に串カツ咥えてする会話をしたいならすればいいんだった)と、当たり前だけど頭でっかちになって忘れがちなことを、改めて認識し直したからであった。

ぎちぎちに固まり詰まったボンドのようにびくともしなかった指先は、今では踊るように軽やかである。
文章が書けなくなることは、どれだけ本に救われていたかを忘れることと、ほとんど同じことであった。
また書けなくなったとしたら、それは今食べたいものがどうにも浮かばないのと同じくらいのことで、ほんと突然、「うわあ!めっちゃ焼き鳥の気分!」と思えたとき、芳ばしい焼き鳥と焼酎のような文章が書けるのだと思う。

しかし、「やるせなさ」を動力としているのは相も変わらず、連日の悪天候と、勉強捗らぬ己の集中力のなさに鬱々としていた気持ちがこれを書きあげた今、すっかり晴れ晴れと澄み切っているのであった。

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