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さながら呼吸

言葉を連ねるとき、わたしは限りなく独りである。

深く息を吸い込み、ちりちりと舞う空気の息遣いに耳を傾ける。
道行く人々に目を向けると、彼らの生活の声が聞こえてくる。苦しいも楽しいもなんとなくわかる。それくらい五感が研ぎ澄まされる。
心に浮かんだわだかまりも、溶け切らないもやもやも、自分のなかでころころ転がして、受け止められるかたちまで持ってゆく。
そうしてようやく、愛せる言葉で文章が書けるようになる。

すべては言葉から派生している。
なんてことはない、我々は語らねば生きてゆけないのだ。

やさしい生活に甘え続けていると、気が付かぬうちに視界に少しずつ靄がかかっていって、愛せない自分がひょっこり顔を出している。自分ができていないことについて、つい考えるのをやめてしまう。
すると、なにかしらがきっかけとなって、怠っている部分が浮き彫りになり、うんと恥ずかしい思いをする。そして心を入れ替える。

悩み、考え、見つけた答えに行いを恥じ、改め、また悩む。
無論、自分ひとり見えているものはないに等しい。そのときそのとき身近な存在に、目にみえる場所に手づるを置いてもらっている感じ。心づよい限りである。
答えだと思って見つけた結論が、明後日には不正解となって、一歩うしろに下がると、また新しい正解が転がっている。ほんと数日前の考えがひよっ子のように思えてくるから可笑しい。望んでいたものも昨日とは違う。望みもまた躊躇っている。

つるんと弾力あるゼリーのようなものがわたしの周りを覆っていて、それはやはらかだが、分厚くたくましい。ぶつかってくるものはあっても、ぶるるんっと揺れ動いては振動をうまく吸収し、元ある場所に戻ってゆく、最近はそんな感覚でいる。

明日には自立しきれないほどのおおきな岩石がぶつかってきて、収拾しようのないほどに崩れ溶けていることもあるであろう。
内臓の奥底のほうから重たい電流のようなものが喉元までせりあがってきて、あれ、呼吸が、
しかしそうなったとき、暗がりに射し込んだ一筋のひかりになにをみるのか、少したのしみでさえもある。
希望を失った数だけ、生きるために藻掻いてみつけた微かな灯りを知っている。

修復の過程で言葉を連ねる。
ゆたかになり過ぎた感傷に、こころが耐えきれなくなったとき、収めきれなかった物憂いが、眩しいだけのちりとなり、言葉になって吐き出される。
ほんとうのところ、書き下ろさなければならない原稿がひとつあって、こんなものを書き上げている場合ではないのだが、皮肉にもすこやかに生きているとき、どうやらわたしは文章が書けないらしい。

深く息を吸う。そっと目をつむり、長い息を吐く。
意識的に呼吸をおこなうと、少しのあいだたった独り「自分」だけの世界ができる。瞬間的な孤独であり、わたしはわたしであると、細胞のひとつひとつに伝達されてゆく。
孤独などできる限り感じたくない。しかし、孤独は人をうんと強くする。たまの孤独がなければ、あっという間に重心を見誤る。

愛する者たちと共に暮らすために、たまの孤独を生きている。

まばゆい生命の光の粒が、吐き出されて渦となり、すっと消える音がする。そよそよと、希望をはらんだ風が吹く。
何の気なしに生きていると忘れてしまう、日々にちりばめられた味わい尽くせないほどのきらめきを、踏みしめた道すべてを、抱擁して生きてゆく。





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