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自分のことだと怒れないのは何故だろう

私の選んだ家族、夫。
選んだは正確ではない。選んでいたらきっと選ばない。だけどこの選択をした事は、私の人生で間違いなく

サイコーの選択だ

夫のことはまた改めて書こうと思うので、今日はここまで。

夫と子供たち、この家族は私にとっては初めての安らぎの場所で最も大事な人たち。だからその家族のことを悪く言うことは許さない、絶対に守る。

身内に夫や娘のことを悪く言われると、すぐにカチンとくる。めちゃくちゃ腹が立つ。ヒドイ!と頭にくる、怒りがわく。

それなのに自分のことを悪く言われた時は、ヒドイ!と怒ることがない。

なぜ自分の時は怒れないのだろう、今の時点ではまだわかっていないが、思いついたことを書いてみたい。

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ひとつ思いつくのは、自分のことはショックを受けてしまい、怒るパワーも湧いてこないのではないか、と言うこと。

怒りというよりも、悲しみになる。ああ、この人は、本当は私のことをこんなふうに思っていたのか、それまでのあの言葉の裏にそんなことを思っていたのかと、ショックを受け悲しくなる。

メンタル弱弱、お豆腐以下、吉宗の茶碗蒸しくらいモロモロだ。全存在を否定されたように思ってしまうのかもしれない。


その場では何も感じないこともあるが、それも後から思い出し悲しくなる。やはり怒りがわいてくることはない。

その時の自分の気分は、世界の全てから悪の存在として拒否されたかのような気持ちになる。あの人にとっても私は悪だったのかと悲しくなる。自分でも大袈裟だと思う。しかし自動的にそんな考えがわいてくる。なぜこんな極端になってしまうのだろう。

夫や娘の時は、「彼らは何ひとつ悪くないのに、あなたの勝手な見方で悪く言うな!」と腹が立った。

自分の時は、「自分にも悪いところがあったかもしれない、自分のせいかもしれない」と自分に矛先が向いている。

悲しみが大きくなる原因は、自分の矛先のせいなのか?今そんな考えが頭をよぎったが、いやいやそんなことはないだろうとも思う。


人のことを悪く言うことは、その人に矛先を向けること。
それが私の大事な人に向いていたら、私はその矛先をはね返し、大事な人を守る。

それが自分に向いている時、私は自分を守りもせず、自らをグサグサと刺しているのか。

私は自分を大事にしていないんだ。

人のことでは怒れるのに自分のことでは怒れない。自分が悪いと思ってしまうのは親に従うには有効だっただろう。

親に頼らなければ生きていけない時は、そこに馴染むしかない。親から言われた否定の言葉は理不尽でも自分が悪いと思い込むことで納得してきたのかもしれない。だけど実際に私が全て悪かったのかと言えばそんなことはない。

大人になってから思い返すと、理不尽なことはたくさんある、親も未熟、不完全な人間、私だけが悪いわけではない。

私は過剰に罪悪感を感じてしまっているのかもしれない。それは子供の時には役立ったけど、もうやらなくていいはず、過剰な罪悪感は必要ない。

まず、明らかな悪意や故意にやったのではないのなら、過剰に罪悪感を持つ必要はないのではないか。謝るところは謝ったら、自分で自分を傷つける必要はないのではないか。何かが起きた時100%自分だけが悪いなんてことはない。色々な要素が組み合わさりそれが起きる。

だから、人から責められたからと言って、一生懸命自分の非を探すことなんかない。相手は相手の理由がある場合もある。

自分が責任を取りたくないから人のせいにしたい。自分がダメだったと認めたくないから、相手が悪いことにする。その人はその人の都合で相手を責めていると言うことだってある。

自分の正しさを押し付けて気持ちよくなる人もいる。そうやって自分をたもとうとする人もいる。善か悪かなんて、見る方向を変えたらいくらでも変わってくる。

私だってずるい所もあるし、自分をいい子にしたいところもある。そんなもんなんだ。

自分は品行方正、清廉潔白なつもりになって正義を振りかざす方がよっぽど厄介じゃないか。

自分もたいしたもんじゃない、相手もたいしたもんじゃない、だからいちいち間に受けないで、自分だけはいつも自分の味方でいて自分を守ってあげたい。例え間違ったとしても、自分だけは味方でいようよ。自分も大事な人に入れてあげようよ。



今日は思いついたまま、書いてみました。

明日からはゴールデンウィーク、落ち着いて書く時間が取れなさそうなので、明日からは日記のようなものを書こうと思います。

お付き合いいただきありがとうございました。

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