映画「オッペンハイマー」の感想

オッペンハイマーとDUNE part2(3回目)をIMAXレーザーで続けて観た。
原作は中巻の三分の一まで読んだ状態(ボーア登場まで)。シュバリエがいない状況で「ハーコンは…」という会話をしているシーンでは、理解できることが嬉しく感じるくらい説明が少なく、終盤に行くにつれこの人がだれなのか分からなくなったり、人物像が混ざったりと振り落とされそうになりながら、何とか食らいつくことができた。特に、オッペンハイマーが精神的に苦しんでいる時期の描写は、その後直接的に回収されるわけではなく、オッペンハイマーの人物像を固めるための説明的なシーンであった。しかも時系列についての説明がほぼないので、原作様様であり、前提知識なく、オスカーをとったからという理由で観に行った観客はしょっぱなで寝ちゃうんじゃないか。ブラックホール理論の場面も原作を読んでいたから面白がれたと思う。その他物理学、量子力学などの専門用語や実験の過程については、ざっくりと流れを覚えていれば、単語そのものを本質的に理解できていなくとも(当然できるわけがないけれども)なんとなくでやり過ごすことができた。
 原作と同じく、もしかするとそれ以上に重要な情報を教えてくれていたのは「町山智弘のアメリカの今を知るTV」のオッペンハイマー特集だ。トリニティ実験場の一般公開で、オッペンハイマーの言葉やきのこ雲がプリントされたTシャツを買う観光客とそれを売るショップの様子が、「オッペンハイマー」映画内でのトリニティ実験が成功したときの科学者たちの喜びようと重なった。何も変わっていないんじゃないかという呆れと、胸くそ悪さを再確認した。また同じくトリニティ実験の爆発からきのこ雲ができて、爆発音がするまでの時間が一瞬の出来事だったという情報を持った状態で映画を観れたことが良かった。劇中、あの爆発のシーンを観ながら「最悪だ」と心の中で何度も唱えていた。オッペンハイマーが原爆を日本に落とすべきだと主張するシーンのあの何とも言えない感情は被爆国の国民ならではの感情なのだろうか。当然生まれる何十年も前の話だし、広島、長崎にルーツは(私の知る限り)ないし、国語や歴史の授業で習ったこと以上の知識、歴史観を持っていなかったのだけれど、原爆に関するものとしては初めて感じるような感情を抱いた。広島、長崎の様子を直接的に描いてはいないわけだが、「オッペンハイマー」というタイトルの映画で広島や長崎について描くことができる時間は限られているわけで。もし仮に、クリストファー・ノーランが中途半端に5分10分広島と長崎の様子について描いていたとしたら、あまりにも不誠実だと感じるのではないだろうか。広島、長崎についてを描くためには3時間あっても足りない。今日まで、そしてこれからも続いていく問題だということを考えると、描かないことが監督の誠実さと考えることもできるはずだ。ましてこの映画は予習が必須なわけで、この映画に真剣に向き合おうとする観客は自発的に広島、長崎について調べるのではないか。「オッペンハイマー」は劇中で描かないことで、観客に勉強というアクションを起こさせようという意図があったと思う。
原爆投下以降のシーンは正直、平常心では観られなかった。それは、まるで自分はオッペンハイマーなのかもしれないという、自分が罪を犯した人間なのではないかという感覚になってしまったからだ。完全に入り込んでしまい、英語はまったくわからないのに字幕を追うことを放棄して、映画の中にいた。初めての感覚、初めての映画体験だった。私の、自分自身の弱さをすべて晒されてしまったという、そんな気分だった。
映画が終わったときには、あまりの情報量の多さと、私が完全に憑依してしまっていたせいで立ち上がって歩くのも困難なくらいボロボロになっていた。その後のDUNEのチケットはもうすでに取ってしまっていたため、一旦外に出て、散歩をして、劇場に戻った。髭男の「SOUL SOUP」を聴いてなんとか気持ちを持ち直してDUNEを楽しむことができた。本当にメンタルがやばかった。怖かった。今日はIMAXレーザーだったが、できればIMAX レーザーGTでも観たい。どうせ行くなら再びダブルヘッダーになる気がするのだが…。

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