「悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか」とグレンジャー因果

悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのかという議論は、
長年積み上げられ、

「悲しい」が原因で「泣く」が結果であるという直観に反して、
「泣く」が原因で「悲しい」が結果であるという説や、

生理的な反応に対する原因帰属が感情を呼び起こすという
情動二要因論と呼ばれる考え方もある。


私は、東洋の国、日本に生まれ育った身のためか、
色んなものを切り分けていく考え方についていけないことがある。

機械やなにかのシステムに故障が生じたら、
チップが悪いのか、メモリが悪いのか、ネットワークが悪いのか、
色々切り分けて原因を特定すべきなのはわかる。

これは、確かに「わかるためにわける」である。


一方、果たして人間のような、なまものについて、
切ってわけることが理解につながるのか、疑問に思ってしまう。

泣くことと、悲しいことを切り離して考える必要が本当にあるのか。
確かに、悲しくなくても泣くことはあるし、
うれし泣きのように、泣いたからといって悲しくならない場合もある。
だから、悲しいと泣くを分けて考えたいのかもしれない。

だけど、悲しいと泣くが同時に起こっているときに、
どちらが原因でどちらが結果であるのかについては、
正直なところどちらでもよい、というよりも、
悲しいも、泣くも結果なんじゃないかと思う。


例えば、遠くで雷が落ちたとき、
光が先に届き、音が後から届くので、
あたかも雷の光が原因で、音が結果なように感じられてしまう。
これは、グレンジャー因果、つまりは疑似的な因果であり、
厳密にいえば、因果関係が成立するとは限らない。
あくまで、原因は「雷が落ちた」であり、
光と音は結果に過ぎないのだ。

もしかすると、「悲しい」も「泣く」も結果に過ぎず、
「泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのか」の議論は、
そもそも問題を設定している段階で、
グレンジャー因果を因果と勘違いしているのかもしれない。

つまり、「ある体験」⇒悲しい⇒泣く ではなく、
「ある体験」⇒泣く⇒悲しい でもなく、
「ある体験」⇒悲しい かつ「ある体験」⇒泣く
なんじゃないだろうか。
あえて言葉を分けずに「悲し泣き」の方がしっくりくる。


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