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確率では語れないこと

数値化して確率を示すとなんとなくのイメージがつかめます。例えば、100人に1人程度だよとか、1%以下だからとか。そうなんだ、99%は大丈夫なのか、などと感じてしまったりもします。

けれども、もし1%の当事者になった場合は、1%でなく100%です。ものごとにはふたつの側面がある、とよくいわれます。マクロでみるのか、ミクロでみるのか、他者として感じるのか、当事者として感じるのか。

誰もが誰かのライフセーバーに では、よく自分ごととして考えてと話し合います。もし、自分がその立場になったならば、どのように感じるのか。思考を他者のものに重ねるというのは簡単なことではありません、やはり当人にしか感じ得ない機微というものは小さくないと感じています。

それでも、自分ならばどうなのか、という観点を持つということは大きな意味があるのだと思います。近頃の若者はというフレーズ、これはもはや死語なのかもしれませんが、自分が若者で現代に生きていたら、と観点を変えてもらえると随分と違って観えたりすることもあるのではないでしょうか。

知らない誰かが感染症にかかってしまった、それは日々流されている情報のひとつかもしれません。けれども、もしそのひとつが親族だったらきわめてシリアスな問題です。家族は隔離され、数週間も軟禁状態となります。

さらに親族に、基礎疾患のある方や、高齢者がいたりしたら。自分のところはそうでなくても、そのような家庭は少なくないと思います。知らない誰かではなく、知っている誰か、きっとどこかで繋がっている誰かという観点で考えれば、いまどのように立ち振る舞うべきなのでしょうか

子を持つ親として、いま性急に学校を再開すべきなのかと考えることもあります。勉強なんて生きてさえいればいつかできる、けれども生命がなくなればどうしようもないのです。そのようなケースは稀であったとしても、その稀が起こり得るのであれば、やはり違った方法も考えるべきでしょう。

いろいろな立場で、いろいろな感じ方があります。それらはきっと正しいのだと思います。ただ、ひとつだけ、一番大切なものは、どんな時であっても生命です、それだけは間違いありません。確率では計れない、確率では語れないことは意外に多いのです、自分ごととして観ていると

誰もが誰かのライフセーバーに

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