剽窃論

プラトンという「盗っ人」

ソクラテスという人物はうたがいなく偉大だ。一方でこの人は、弟子プラトンが理解した。そして、盗んだ。盗んで、そして発信した。だからからこそ偉大になった、という側面も捉えることができる。

盗まれて偉大になる

その人が偉大だから誰かに盗まれるという側面もあるが、誰かに盗まれることでその人が偉大になるという側面もある。シェイクスピアもパクリ魔だ。そしてそのシェイクスピアも、がっつりパクられた。シラーの『群盗』は、シェイクスピアの四大悲劇のツギハギだ。『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」も、あとあとパクられまくったからこそ「映画史上もっとも有名なシーン」と呼ばれるほどになった。

「盗作」が文化を形成する

もちろん現代的な視点で見れば盗作は悪であるが、盗作が悪とされるようになったのはコピーライトという考え方が浸透してからのことである。歴史をさかのぼれば、「盗作」、もうすこし柔らかい言葉で言えば「オマージュ」や「パロディ」が、連綿とした文化を形成してきたのが事実だ。パスカルに至っては「他人から得たものが多く含まれている方が良いものが出来上がる」と言い切っている。作品とは、作者の知恵の賜物ではなく、作者が見聞きした偉人やその作品の賜物なのである。

「完全なる新しさ」を求める弊害

自分のオリジナリティにこだわりすぎて、自分の作品を構成する内容、構造、解釈がそれ以前にもあったものかに頓着しすぎると、四方八方動けなくなる。これは、一応クリエイティブに属する自分自身への戒めである。19世紀から20世紀初頭に活躍したオーストリアの批評家ヘルマン・バールは「剽窃」についてこう述べた。「いまだかつてなかったものだけが通用することにすれば、たちまち、誇張に満ちた愚者が最大の人気作家となるのが関の山だ。」要するに、剽窃(=パクり)を禁止すると、誇張されたコンテンツが人気を博すようになると言っている。100年以上経ったいま、動画コンテンツ隆盛の時代に誰しも心当たりのある、鋭い指摘である。

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