単管パイプと資本主義

買わない人たち

単管パイプが欲しいので、百姓仲間のおじさんにどこで売っているか聞いた。「買うなそんなもん、工事現場なんかで廃材が出るだろ。声かけとくんだよ。」と言われた。八丈島の百姓仲間たちは、器用な人ほど金で買える「商品」を使わない。工夫して、ゴミを拾って作った道具や、伐採した竹や木を材料にした道具を使っている。島にホームセンターが無い、ということの理由のひとつがわかる。たぶん、売れない。買わないんだ、この人たちは。そういう人たちは率直に言ってカッコいい。資本主義に洗脳されていない人たちが、そこにいる。

学習性無力感

むかしは自分で必要な物は自分でこしらえているという方が当たり前だった。ところが、あるとき「これは専門でやる人がいた方が効率的だよね」ってことで、自分でこしらえるという行動を手放した。手放したそれは、いつの間にか独り歩きをして遠くへ行ってしまい、自分でこしらえるという選択肢自体が片隅に追いやられてしまった。誰かに任せる、アウトソーシングが前提になってしまった。それほど難なく作れるものまで、「無理だよ」と言って、買うようになってしまった。これを学習性無力感と呼ばずして何と呼ぶ。長い間鎖につながれたゾウは、次第に「鎖につながれていない」という状態を忘れ、鎖が外れても逃げる意志を持たないという。これも学習性無力感。

とにかくやる、変化はあとから

いまの時代は便利なので、何かを作ろうとしたとき、ネットで検索すればだいたい先達がいて、ヒントが得られる。だから、臆することなくやってみることができる。お金で買って使うのがあたりまえ、アウトソーシングするのがあたりまえの行動を、ちょっとだけ取り返してみる。自分でやってみる。やる前と、やった後。やった後の自分を通して、やる前の自分を見つめ直してみる。わずかな変化を感じる。その<あとから感じる変化><回顧的にわかる意味>こそが、「学び」だ。

何度かやってたらコツがわかってきた

自分で作るコツは「応用」と「代用」である。たとえば自転車が壊れたりして、純正のパーツを調達しようとすると3,000円するが、ハリガネで固定すりだけで問題なかったりする。これは、ハリガネという汎用品を「応用」した例。また、「情報メディア」である新聞を、丸めて梱包材にしたり、敷いて天ぷらの油を吸わせたり、「使い方を間違える」ことで、一段と汎用性を帯びる。これは、新聞という全く別の機能を持つ物体を「代用」した例。二つの「用」を駆使して、以下の三段階を踏む。

①ゴール設定
何がしたいのか。何を作りたいのか。何ができていればいいのか。「要は、こうなっていればなんでもいいのだ」という急所を押さえる。
②材料探し
やりたいことや作りたいものに使えそうな材料探しをする。そのまま使えなくても、ちょっと加工すれば使えるものもある。タダではないが、百均やホームセンターはヒントの宝庫。インターネット検索では、ぼくはAmazonの「関連商品」や、Googleレンズの検索結果もよく見る。
③実行、検証
やる気が無くなる前に電光石火の試作。

作ることを通して得られるキッカケ

自分が泳いでいる川がどのように流れているかは、その川から一旦出ないとわからない。同様に、いつもどおりに生活をしている限り、普段の自分がどのような道をたどっているのか、見えにくい。ぼくにとって、自分で必要なものを自分で作るということは、資本主義の世の中に生きる自分を見つめ直すキッカケにほかならない。

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